初級翻訳・楽聖物語 第14話

楽聖物語

十三歳の時、ローマのシスティーナ礼拝堂で、合唱隊が門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を歌うのを聴いた際、モーツァルトは宿に帰ってくると、それをそっくりそのまま暗記で書き留めました。二度目に聴いた時には、ほんの少しの訂正を加えただけで、完全にその秘曲を写譜してしまったのです。ローマ法王はこれを聞いて大いに驚きましたが、モーツァルトを罰する代わりに、彼を招いて勲爵士の位を授けたと言われています。モーツァルトの天才の鮮やかさは、後にも先にも類を見ないものなのです。モーツァルトは、わずか三十五年の短い生涯の間に、歌劇二十一曲、交響曲四十一曲、教会音楽五十八曲、管弦楽曲七十余曲、室内楽四十余曲、ピアノ曲九十八曲、ヴァイオリン・ソナタ四十二曲、ピアノ・ソナタ二十二曲など、実に一千曲にも上る作品を書き上げました。
彼の中に絶えず湧き上がる音楽のアイデアは、まるで泉のように尽きることなく、その口から出る言葉や書く音符の一つひとつが、宝石のように輝いていました。
古今東西、真の天才というものを探すなら、音楽界においてはモーツァルト、シューベルト、そしてショパンを挙げなければならないでしょう。
バッハやベートーヴェン、ワグナーといった巨匠たちは、ただの天才という枠を超えた、いわば「英雄」のような存在であり、積み上げられた努力によって完成された巨人型であると言うべきです。

**不幸な自尊心**

これほどまでの類まれなる天才でありながら、モーツァルトの生涯はあまりにも不遇なものでした。
十七歳のときに演奏旅行から帰国し、イタリアやフランスで本格的な音楽の勉強を続けた彼は、故郷ザルツブルクの大僧正に仕えました。しかし、その大僧正が亡くなった後、後継者の無理解にどうしても我慢ができず、自暴自棄な振る舞いをして職を追われてしまいました。それから三十五歳でこの世を去るまで、モーツァルトには、まともな職業さえ与えられることがなかったのです。

モーツァルトを巧みに働かせ、稼がせていた父親に対して、彼は本当に「良い息子」でしたが、ザルツブルクを去った時と、二十七歳で結婚した時だけは、父や母、姉たちの猛烈な反対を押し切らねばなりませんでした。
妻のコンスタンツェは、モーツァルトの初恋の人であったアロイジア・ウェーバーの妹で、ウィーンの踊り子でした。しかし彼女は、モーツァルトの愛情をただ浪費させるだけの存在に過ぎず、あまりに無知で、夫であるモーツァルトに対して理解も尊敬も払ってはいませんでした。
モーツァルトの死後、世間がこぞって彼の死を悼み、多くのファンが旧居を訪ねて憧れを抱いているのを見て驚き、ようやく自分の夫が十年もの間一緒に暮らした「類まれなる大天才」であったことに「少しだけ気づいた」程度だったと言われています。

コンスタンツェには経済的な感覚が全くありませんでした。
そしてモーツァルトもまた、お金の管理という点では彼女とどっこいどっこいでした。
二人は石炭さえ買えない寒い冬の夜、踊り明かしてなんとか寒さを紛らわせることさえあったのです。
モーツァルトはしばしばどん底の貧乏に追い込まれ、音楽時計のための曲(アダジオ)を書いたり、たった数フロリンの金のためにソナタを書いたりしました。
そして、「俺は金が欲しいから作曲するんだ。食わなきゃならないからね」と、投げやりなことを口にすることもありました。

そんな苦しみの中にいながらも、モーツァルトは妻のコンスタンツェと友人たちを愛し続けました。
「本当に信頼できる友人は貧しい人たちだ。お金持ちの人たちは、友情なんてものをほとんど知らないからね」――これは、逆境や貧しさにも負けなかったモーツァルトの、愛に満ちた言葉の一つです。

ベートーヴェンは「金のために曲は書かない」と豪語し、モーツァルトは「金が欲しいから書く」と言いました。
その言葉は正反対で、ベートーヴェンの潔さに比べると、モーツァルトの心持ちを疑いたくなる人がいるかもしれません。
しかし、それは大きな間違いです。後世の批評家たちは、ベートーヴェンには多少の虚勢や見栄があり、モーツァルトには、わざと悪ぶってみせるような投げやりな態度があったことを読み解かなければなりません。
モーツァルトの邪念のない、宝石のように澄み切った音楽を聴いて、一体誰が「彼は金のために書いたのだ」と思うでしょうか。
あの聖らかで美しい音楽は、決して「金銭」というような卑しい動機から生まれるものではないのです。

貧しさと不遇の中にありながらも、モーツァルトの芸術を支えていたのは、実に彼の強大な「自尊心」でした。
少年時代のモーツァルトが「愛されること」を強く望んだのも自尊心の表れですし、青年時代にザルツブルクの卑しい地位に甘んじることができなかったのも、また自尊心の爆発でした。
彼の心は子供のように純粋で、いささかの妥協も、卑怯な譲歩も受け入れることができなかったのです。

「ある公爵がね、僕のような人間は百年に一度しか世に出ないと言っていたよ」――とモーツァルト自身が語っています。
これは一見すると自慢話に聞こえますが、実はこれほど謙虚な言葉はないと言ってもいいでしょう。
百五十年後の今日から見れば、モーツァルトのような天才は、百年に一人どころか、千年に一人だって生まれるかどうかわからないのですから。

「君たちは生まれ変わったって、僕のようにはなれないよ。それに比べれば、君たちがどんなに勲章をもらおうと、僕の手中に収めることなんてたやすいことさ」――モーツァルトは、傲慢で世俗的な人たちにこう言い放ったこともあります。
「従僕だろうが伯爵だろうが、僕を侮辱するような奴は、ただの卑しい人間だ」これもモーツァルトの自尊心が爆発した言葉でした。
ある公爵に招かれた際、宴会の席から仲間外れにされ、使用人たちと一緒に食事をさせられたモーツァルトは、「使用人扱いされた」という屈辱と激怒で、酔っ払いのようにふらふらになって帰宅し、翌日になっても心が落ち着かなかったと伝えられています。
ベートーヴェンもまた、これと同じく強大な自尊心の持ち主だったのでした。この自尊心は、芸術家に共通する性格であり、あの高貴な作品を生み出すために、どうしても必要な資格だったのかもしれません。
モーツァルトの音楽が、どんな大衆に聴かれても、その高貴で冷ややかな美しさを失わないのは、低俗な流行に媚びることのできない、絶大な自尊心があったからではないでしょうか。

**偉大なる記念碑**

モーツァルトは、こうして数々の珠玉の作品を書き上げました。
普段の彼はとても陽気で、いつでも笑っていたいという様子でしたが、死期が近づくにつれて、その作品は次第に暗さを増し、どこか宿命的な恐怖が背後に迫るような響きを帯びるようになりました。
後期の室内楽や、ト短調の交響曲などがその良い例です。
モーツァルトの健康はどんどん衰えていったのに、劇場主は彼を遊びの世界へ引きずり込み、明るく楽しい作品を書くよう強要しました。妻のコンスタンツェもまた、子供を連れて転地療養に出かけては、夫であるモーツァルトに終わりのない浪費のための金を要求し続けました。

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