次郎はびっくりして手を引きましたが、その五本の指には、ご飯が一握りつかまれていました。
彼はあわててそれを口に押し込みながら、座敷の方へ逃げ出そうとしました。
しかし、もう遅すぎました。
座敷の敷居をまたぐかまたがないかのところで、彼は襟首をお民につかまれてしまったのです。
「お前は、お前は……」
お民の声は、怒りとも悲しみともつかぬ感情で震えていました。
それから次郎はちゃぶ台の前に引きずり出され、長いことお民と向かい合って座らなければなりませんでした。
「ここはお前の生まれた家なんだよ」
説教は、彼が昨夜から何度も聞かされた言葉で始まりました。
「ここの家はね、こんな田舎に住んでいても、れっきとした士族なんだよ」
これも次郎が聞き飽きるほど聞いた文句でした。もっとも「士族」が何なのかは、いまだにはっきりしません。
「士族の子ともあろうものが、何という情けない真似をするんだよ……強情で食べないつもりなら、いっそ二日でも三日でも食べないでいたらいいじゃないの。ご飯どきには寄りつかないで、竹藪の中に寝たりしているくせに、こっそり忍んで来て手づかみで食べるなんて、思っただけでも、このお母さんはぞっとするよ」
次郎は、まだ指先にくっついているご飯粒をどう始末していいかわからず、もじもじと手を動かしました。
「それ、その手をご覧。それを見たら、ちっとは自分でも恥ずかしい気がするだろう」
次郎は何と思ったか、ぴたりと手を動かすのをやめてしまいました。
「お前はね……」
とお民の声が急に優しくなりました。
「ちょうど八月十五夜の月が出る頃に生まれたので、今にきっと恭一よりも俊三よりも偉くなるだろうって、お父さんはじめ、みんなでおっしゃっているんだよ」
次郎は、これまでお浜が人の顔さえ見ると、よくそんなことを言っていたのを覚えていました。そして彼は、そんな話が出るといつも内心得意になっていたのですが、母の口から今はじめてそれを聞かされて、急にそれがつまらないことのように思われ出したのです。
同時に、彼は校番のむさ苦しい部屋が、無性に恋しくなってきました。
(偉くならなくてもいい)
そんな感じが、はっきりとはしませんが、彼の心を支配しました。一人ぼっちで、しかもどちらを向いても突き当たるような気持ちでいるのが、彼にはたまらなく嫌だったのです。
「お浜のところへは、もうどんな事があっても帰さないよ。それも、みんなお前に偉くなってほしいと思うからのことだよ……このお母さんの心が、お前にわかるかい」
次郎には、もうお浜のところには帰れないということだけがわかりました。
彼は今更のように悲しくなって、思わず涙をぽたぽたと膝の上に落としました。ご飯粒のついた指が、急いでそれを拭いました。
お民は昨夜から初めて次郎の涙を見て、それを自分の説教の効果だと信じました。そこで簡単に説教の締めくくりをつけると、すぐ立ち上がって、次郎のために椀と皿と箸を用意しました。
次郎の涙はなかなか止まりませんでした。彼はご飯をかき込みながら、しきりに鼻をすすりました。袖口と手の甲が、涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れました。
おかずには小魚の煮たものを付けてもらいましたが、泣きじゃくってうまく身をほぐせなかったので、少し箸をつけただけでした。それでもご飯だけは四杯もお代わりしました。
お民はその間そばに座って、次郎のためにご飯をよそってやりました。それはもちろん彼女の母としての愛情を示すためでした。
しかし、次郎の方から言わせれば、それはちっともありがたいことではありませんでした。なぜなら、もし彼女がそばにいなかったら、彼は四杯どころか、五杯でも六杯でも食べられたはずだったからです。
何よりも次郎の心を刺激したのは、恭一と俊三とが手をつないでやって来て、縁側から珍しそうにその場の様子を眺めていたことでした。
「お前たちは、あっちに行っておいで」
お民は何度も二人をたしなめましたが、二人は平気な顔をして、ちっとも動こうとはしませんでした。ご飯が存分に食べられなかったのは、一つはそのためでもあったのです。
食事が済むと、次郎はまたしばらくの間、母の説教を聞きました。説教を聞いている間に、涙がひとりでに乾いて、彼の心は妙に落ち着いてきました。
同時に、恭一と俊三に対する憎しみの気持ちが、冷たく彼の胸の底ににじむのを覚えました。
七 玉子焼
「次郎、また一人でそんな所にいるのかい。ほんとに、どうしたっていうんだね。早くこちらに来て、お父さんにご挨拶をするんですよ」「次郎、また一人でそんな所にいるのかい。本当に、どうしたっていうんだね。早くこちらに来て、お父さんにご挨拶をするんですよ」
お民にそう声をかけられたとき、次郎は日が暮れかけた庭の木立の間を、一人でぶらぶらと歩き回っていました。
父の俊亮は、猿股(さるまた)一枚の姿で、お民に蚊を追わせながら、座敷の縁側で酒を飲んでいました。そのそばには、恭一と俊三も座っています。
次郎にとって、自分の父親という存在は、まだ何ともつかみどころのないものでした。というのも、父はこの村から三、四里(約12〜16キロ)も離れた町で小役人をしていて、土曜から日曜にかけてしか帰ってこなかったため、次郎は里子に出されていた間、父と顔を合わせる機会がほとんどありませんでした。ましてや、直接言葉をかけてもらった記憶など、ほとんどなかったのです。
それでも次郎は、父の顔つきだけは、いつの間にかはっきりと覚えていました。そしてその顔は、間違いなく家中の誰よりも親しみやすい顔でした。もちろん、お浜の亭主である勘作などに比べれば、ずっと優しそうに見えたのです。
ですから、今日母親から「夕方にはお父さんが帰ってくるんだよ。次郎がここに帰ってきてから初めてだね」と言われたときには、一刻も早く会ってみたいような気持ちになっていました。
いざ夕方になり、父を迎えるためにみんなが庭に打ち水を始めたときには、次郎も珍しく恭一の後について、柄杓(ひしゃく)で庭石に水をまいて歩いたりしたのです。
それなのに、いざ父が帰ってきたと聞くと、妙に気後れしてしまい、みんなと一緒に玄関へ飛び出していくことができませんでした。それどころか、騒がしい中で一人こっそり庭の植え込みに這い込んでしまったのです。
そして、父が服を脱いだり、お風呂に入ったり、母がお膳の支度をしてそれを座敷の縁側に運んだり、恭一と俊三がはしゃぎ回ったりしている様子を、じっとそこから覗いていました。
しかし、覗いているうちに、だんだんつまらなくなってきました。もともと次郎には父を避ける気など少しもなかったのですが、つい妙なタイミングでこんなことになってしまったのです。それに困ったことに、誰も自分が見当たらないことを気にかけている様子がありません。
かといって、今さら植え込みの中から、のこのこと出ていくのも変な話です。彼は自分が庭にいることを、何とかして皆に気づかせたいと思いました。そこで、父がいよいよ晩酌を始めた頃に、わざと足音を立てて庭をうろつき始めたのです。
彼が母に声をかけられたとき、「しめた」と思いました。
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