初級翻訳・水中の宮殿 第1話

水中の宮殿

「お嬢様、今すぐ鎌倉の翠川さんの別荘へ行ってください」
「どうしたの、爺や?」
「どうもしませんが、夏休みになったら泊まりに行くお約束でしたよね」
「でも、爺や一人で不自由することはないの?」
「私はもう六十八歳ですから、どんなことがあっても驚きませんよ」
「まあ、何かあったのね、爺や」
 立花博士の遺児で、今年十四歳になる綾子は、目を丸くして正平爺やの顔を見つめました。
「お嬢様、それじゃあ申し上げますが……お嬢様がここにいると、命が危ないんです」
「そんなこと、まさか」
「今朝、お嬢様の部屋のバルコニーの欄干の柵が外れていました。お嬢様がいつものように寄りかかったら、すぐに落ちてしまうようになっていたんですよ。ご存知でしたか?」
「まあ!」
「あのバルコニーから落ちたら、下はコンクリートですから、助かるはずがありません。それから……」
 正平爺やは、綾子の耳に口を寄せました。
 渋紙のようにシワの寄った肌や、真っ白になった頭が近づくと、幼い頃、この爺やに抱かれて植物園や動物園を遊び歩いたことを思い出し、綾子の目は思わず涙でうるみました。
「お嬢様、それだけじゃございません。二、三日前には……」
 正平爺やは、何やら綾子に囁きました。
「爺や、私、怖い」
「ですから、今すぐ鎌倉へ行ってください。お荷物は後からお届けしますから」
「爺やはどうするの?」
「私はここで見張っていなければなりません。私がいなくなったら、悪者たちがどんなことをしでかすか分かりませんから」
「でも……」
「お嬢様には、大事な大事な仕事があるじゃございませんか。万が一のことがあったら、この広い世界で、誰がお父様――立花博士の恐ろしい汚名を晴らして差し上げるのですか?」
「爺や、行くわ。叱らないでね」
「誰がお嬢様を叱ったりするものですか。とんでもない」
 爺やも、綾子も泣いていました。しばらくの間、白髪の頭とショートカットの髪が、テラスの葡萄の葉陰で、頷き合うように揺れていました。

 綾子は、名匠が彫り上げた「悲しみの像」のような乙女でした。
 父の立花博士は、北上川の底から平泉館の宝庫を掘り出す計画を立て、大勢から資金を集めて仕事に取りかかりましたが、さまざまな手違いで失敗してしまいました。そのせいで大詐欺師扱いをされ、裁判の判決が出る前に監獄の中で亡くなってしまったのです。
 それは去年の秋のこと。後にたった一人取り残された綾子は、世間の迫害と侮辱の中で、爺やの正平を相手に寂しく暮らしてきました。
 牛込の邸宅には、博士が亡くなってから世間の迫害を恐れて雇人は住み着かなくなりましたが、それでも正平爺やの他に、博士の助手をしていた滝山達郎と、その妻の三枝子が住んでいたので、綾子が不在でも困ることはありませんでした。
 綾子はその日の夕方、鎌倉の翠川家の別荘に着きました。
 主人は有名な実業家です。長男の健一は水泳の選手で、十八歳になったばかりですが、いくつもの日本選手権で優勝している快活な青年です。妹の燿子は綾子の学校友達で、綾子より一つ上の十五歳。五月の陽気のように明るく、採れたてのトマトのように新鮮な感じのする少女でした。
 翠川一家は、健一も燿子も、立花博士の平泉館発掘の話には一言も触れないようにして、毎日毎日、ただ楽しく遊びました。
 由比ヶ浜での水泳、鎌倉山の遠足、ある時は八幡様へ、ある時は七里ヶ浜へ。勉強も運動も精一杯やるという生活が、十日ほどの間に綾子をどれほど元気にさせたことでしょう。
 この生活が一ヶ月続いたら、綾子の健康も気持ちもすっかり変わってしまうのではないか――翠川一家の人々がそう言ったのも無理はありませんでした。健一と燿子は、健康と明るさを振りまいて歩く、二人の妖精のような存在だったのです。
 ところが、思いもよらぬ事件が、思いもよらぬ形で現れました。
 ある朝、ベランダで由比ヶ浜を眺めながら、何気なく新聞を読んでいた綾子が、
「あっ」
 と不意に籐椅子から立ち上がりました。
「百足に刺されたの?」
 燿子が飛んできました。この辺りは大きな百足が多く、時々それに刺されて大騒動になることがあったからです。
「爺やが、爺やが……」
「爺やさんがどうしたの? まあ大変!」
 燿子は新聞を取り上げ、指さされた記事を一目見ると、思わず大きな声を出してしまいました。

『故立花博士邸に怪盗
 老僕を惨殺して金庫を破る
 助手滝山某に濃厚な疑い』

 この見出しを見ただけでも、事件の重大さが分かります。
「私、行ってくるわ」
 しばらくすると、綾子は決然として顔を上げました。
 十日あまりの休養で、体も心も強くなったのでしょう。青白かった頬には興奮の血さえ燃えていて、もうここへ来た時の「悲しみの像」のような寂しい面影はありませんでした。「そんな場所へ行って大丈夫なの? 綾子さん」
 燿子の方が心配そうに、綾子の顔を覗き込みました。
「私、意気地がなかったわ。あの時、爺やがなんと言っても、どんなに不気味なことがあっても、東京に残って、足の不自由な爺やのそばについていてあげるべきだったのに」
「…………」
「あの大事な、大事な記録がなくなってしまったら、どうすればいいのかしら」
 綾子はもう、じっとしてはいられませんでした。思い立つとすぐに階下へ駆け降り、まるで夢遊病者のように、長谷の停留所の方へと飛び出していきました。
「綾子さん、待って! 私も一緒に行くわ」
 燿子はお母様から許可をもらうと、ちょうど空いていたお父様の自動車に乗って、鎌倉駅へと綾子の後を追いました。

記録は盗まれた――疑わしい人々

「お嬢さん、記録は盗まれました」
「えっ」
 玄関へ飛び出してきた助手の滝山は、棕櫚(しゅろ)の箒のような髪を指でかき上げながら、少し気が触れたような目を見開きました。
 その後ろからは、様子をうかがうように、おどおどした妻・三枝子の目が見えています。博士の令嬢が鎌倉にいることを知っていながら、この騒ぎを知らせてこなかったような人々ですから、老僕の正平が殺されたことよりも、記録が盗まれたことを大騒ぎしているのでしょう。
「もっとも、記録が盗まれなければ、私が人殺しの疑いをかけられるところでしたよ。私はあの金庫を自由に開けられるし、記録も自由に読めるということを証明して、ようやく疑いが晴れたんです」
「…………」
 綾子と燿子は、助手の言い訳や、制服・私服の警官たちの視線を背中に受けながら、黙って家の中に入りました。
 現場検証の役人たちは引き揚げており、もう二人の少女をさえぎる者はいません。
「まあ……」
 階段の下に据え付けられた金庫の扉は、強力な薬品で腐食させられ、三十センチ四方ほどの大穴が開いていました。それを見て、綾子は思わず立ちすくんでしまいました。
「どうしたの、綾子さん」
 後ろからそっと肩に手を置く燿子。
「あの記録がなくなってしまったら、お父様の言っていたことがみんな嘘になってしまうわ」
「なんとかなるわ、綾子さん。お兄様と相談して、記録を取り返す方法を考えましょう」
「…………」
 二人は心ここにあらずといった様子で、階段の横から食堂へ入りました。

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