初級翻訳・水中の宮殿 第9話

水中の宮殿

父が新たに出資して、綾子さんを支えているのです。株式会社というわけでもありませんから、出資も事業の継続も自由なはずだと聞いております」
「翠川氏が? なんという馬鹿なことに手を出したものだ」

唐崎荘之介はプリプリと怒りましたが、翠川健太郎といえば有名な実業家ですし、健一の言い分にも間違いがなかったため、それ以上どうすることもできませんでした。

「いずれ改めて談判に来るぞ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「どうぞ」

健一を横目に、唐崎は秘書を促して荒々しく引き揚げていきました。

◇

「お兄様、銅板の絵図面はどこ?」
「六畳の押入れにあるはずだ」
「それが、ないんです」と燿子。

「えッ」
健一も綾子も、揃って六畳の部屋へ駆け込みました。丸太を枠にした窓のガラス戸は全開にされ、戸棚も開け放たれたままで、中にあるはずの銅板は影も形もありませんでした。

「やられたッ」

健一は、開いたままの窓からいきなり飛び降りました。しかし、まだ月の出には早い林の中は、墨を塗りつぶしたような闇で、一寸先も見通せません。泥棒は、皆が次の間で夕飯を食べている隙を狙って、窓から侵入したのでしょう。

「足跡があるはずよ」

燿子がコードを長く伸ばして差し出した電灯の光で見ると、窓の下の柔らかい土の上には、健一の大きなブルドッグ型の靴跡のほかに、先の尖った華奢な靴跡が深々と印されているではありませんか。

「あいつだッ」

健一の頭には、青白い顔をした秘書、杉村三五郎の、五分も隙のないハイカラな姿がはっきりと浮かびました。こんな山の中で、これほど洒落た靴を履く人間など、あの秘書以外に考えられません。

「弱ったな……絵図面がなくては、あれ以上一尺(約三十センチ)も掘り進むわけにはいかない」

健一はすっかりしょげてしまいました。一度は潜水夫の死とともに紛失し、この事業をダメにしかけた銅板の絵図面が、ようやく発掘が有望になりかけたところで、またも盗まれてしまったのです。

「お兄様、銅板は盗まれても、あの絵図面だけならあるわ」

燿子が不思議なことを言い出しました。

「そんな馬鹿なことがあるか。銅板そのものが絵図面じゃないか」
「ええ、その通りよ。でも、私、こんなことがあっては困ると思って、あの銅板を写真に撮っておいたの。何枚も何枚も」
「しめたッ、それを見せろ!」
「駄目よ、フィルムのままなんですもの。こんな場所では現像も焼き付けもできないわ」
「一関まで行ってくる。フィルムを出せ!」

健一はスポーツマンでした。いざとなると、一瞬たりともためらうことはありません。
「私の写真では危ないと思って、六枚も撮ったのよ」

燿子の手からフィルムを受け取ると、健一は上着を羽織るのももどかしく、小屋の外へ飛び出しました。

◇

健一が一関から帰ってきたのは、思いのほか早く、その晩の一時頃でした。手には六枚の写真を持って、それはもう得意満面です。

「燿ちゃん、大手柄だ! 写真はみんな上出来だぞ。これさえあれば、銅板なんか重くて邪魔なだけだ」

卓の上、電灯の下に並べてみると、燿子の手際にしては実に立派な出来栄えで、六枚のうち少なくとも二枚は、プロが撮ったかのように鮮明でした。

「まあ、私の写真が役に立つなんておかしいわね」

燿子は有頂天になりながらも、少し恥ずかしそうでした。

「ところで、この写真でも分かる通り、絵図面のほかに何か引っ掻いたような跡があるんだ。どうも、後から銅板に書き加えられた文字らしいのだが、どうしても読めない」
「…………」

一番鮮明な写真を光にかざしてみると、なるほどその端っこの方に、何やらひっかいたような文字らしきものが見えるのでした。「銅板のままだと錆のせいで見えなかったけれど、写真を撮ると青錆が白く写るから、引っ掻いた跡が浮き上がって見えるんだ。とにかく、このままではどうしようもないから、フィルムにメッキ加工をして引き伸ばしてもらうことにしたよ。明日の夕方までには、使いの者が届けてくれるはずだ」

銅板の写真に現れたその引っ掻き文字が、どんな秘密を語るのか。それはさておき、夜が明けるのを待って、平泉館の発掘作業はさらに勢いを増して続けられたことは事実です。

しかし、唐崎荘之介とその秘書の杉村、ロイド眼鏡をかけた釣男といった連中は、どこへ行ったのか一日中姿を見せず、一関の写真屋も、日の暮れるまで引き伸ばした写真を届けてくれません。

「どうしたんでしょうね、お兄様」

そんな話をしていたところへ、隧道の入口を見張らせていた男が飛んできて、
「隧道の中に誰か入ったようです。私と交代で見張っていた男が、入口で気を失っていますよ!」
と、青ざめた顔で報告します。

「何だって!」

健一が隧道の入口へ行ってみると、確かに一人の男が、何か重い物で頭を殴られたらしく、二、三人の仲間に介抱されて、まだ気持ち悪そうに横たわっていました。

「僕が中を見てくる。二人はここにいるがいい。危ないから」
健一は燿子と綾子にそう告げて隧道の中へ飛び込むと、
「大丈夫よ、入口にこんなに大勢いるんだもの」
と、二人の少女も続いて中へ入りました。

隧道を通り抜け、地下の広場へ一足踏み込むと、
「オヤ?」
健一は立ち止まりました。

「どうしたの、お兄様?」
「毒ガスの匂いだ。危ない、引き返せ!」

健一は二人の少女を小脇に抱え込むと、すり傷やコブができるのも構わず、がむしゃらに隧道の入口へと引き返しました。

「あれが毒ガスなの、お兄様?」
「ああ、間違いなく毒ガスだ。あの匂いは学校の実験室で何度も嗅いで知っている」
「どうして毒ガスなんてあるのかしら」
「自然に発生するわけはない、人が仕組んだんだ。現に、あの広場の先の小部屋には、倒れている人間の姿が見えたぜ」
「助けてあげましょう。誰だか知らないけれど」
「マスクでもなきゃ、あの中へは入れない」
「マスクなら小屋にあるはずだわ。地下の探検は自然発生の毒ガスでやられることがあるの。エジプトのツタンカーメン王の墓の発掘で大勢亡くなったのも、毒ガスのせいらしいわ。僕はマスクを用意して行く――ってお父様が仰っていたことがあるの」
綾子がいいことを思い出しました。

「それはいい考えだ!」

健一が飛んでいくと、お高さんは物置の中から立派な毒ガス除けのマスクと酸素発生器を三組も揃えて出してくれました。

◇

健一と燿子と綾子の三人は、毒ガス除けのマスクをつけて隧道の中に飛び込みました。
広場の先の小さい穴の中へ行ってみると、懐中電灯を振り照らすまでもなく、二人の人間が死んだも同然の状態で倒れております。
覗き込むと、それは唐崎荘之介と、秘書の杉村三五郎でした。もしマスクが無かったら、三人はどれほど大きな声で驚き叫んだことでしょう。

広場の入口のところに、手製の粗末な毒ガス発生器が放り出してあるところを見ると、二人が隧道へ入ったのを見た曲者が、そっと後をつけてきて、ここに置いて逃げ出したのでしょう。幸い毒ガス発生器は不完全で、あまりガスが出なかったため、唐崎荘之介と秘書は辛うじて息だけは通っている様子です。

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