走り去る町の景色を眺めながら、どんな口実で啓吉を預けようか、それを考えるだけで気が重くて仕方がなかったのだ。
「あ、いつか叔母さんと行ったお風呂屋さんがあるね」
啓吉がびっくりするような大きな声で言った。
「運転手さん! この辺でいいわ」
自動車が「ギイッ」と急停車すると、啓吉はよろよろと母親の膝へ倒れ込んだ。
三
コロッケ屋と花屋の間の路地へ入ると、突き当たりが叔母の寛子の家だ。溝のふたの上に立つと、台所で何を煮ているのか匂いでわかるほど小さな家である。
入り口のコロッケ屋は、ジャガイモの山ばかりが目立って、肉片がぶら下がっているのを見たことがないほど貧弱な店構えだった。啓吉が初めて寛子の家に預けられた時、六つで十銭というコロッケをよく買いに行かされたものだが、揚げ鍋が小さくて、六つ揚げてもらうにはずいぶん時間がかかった。
右側の花屋は、それに比べればなかなかの盛況ぶりだった。バラやユリ、カーネーションのようなお屋敷好みの花はなかったが、菊の季節になると、一握り五銭ほどの小菊が、近所の二階住まいや喫茶店、下宿の学生たちによく売れていった。
寛子も花が好きで、少しでも小銭ができると花屋へ出かけては半日も話し込み、見事なケイトウを何本ももらってくることがあった。
貞子は、この貧しい妹に、自動車から降りるところを見せたくなかったのだろう。
風呂屋の前で自動車を降りると、すっかり眠ってしまった礼子を抱え、花屋とコロッケ屋の小さな路地を曲がった。
「いる?」
「あら、いらっしゃい! またお荷物(子ども)連れでご入来か……」
「相変わらずね。勘三さんはいるの?」
「ううん、朝方、『今日みたいにいいお天気なら、雑誌の記者も機嫌がいいに違いない』って、原稿を背負って出かけたんだけど……」
「まあ、背負って?」
「あの人が原稿を売りに行く格好ったら、まさに『背負っている』っていうのがぴったりなのよ。こう猫背でさ、背中の方まで原稿を詰め込んで。私、一度でいいから、うちの人がどんな格好で原稿を売り込んでいるのか見てみたいわ。きっと一目で愛想を尽かされるような姿に違いないと思うのよ……」
「そんなこと言うもんじゃないわよ。昨日や今日一緒になったわけじゃなし、子どももいるんだから……」
二階が六畳一間、一階が四畳半と二畳という小さな家で、家具といえば寛子の鏡台くらいなものだった。勘三の机でさえ、原稿用紙が載っていない時はすぐに食卓として使えるような、引き出しもない子ども用のもので、とにかく何もない部屋だった。
「お茶でも淹れましょうか」
「おやおや珍しい、ガスも電気もちゃんと通っているのね」
「バカにしないでよ、この間、ちょっと大金が入ってさ……」
「へえ、いつの話?」
貞子は礼子を寝かしつけると、取っておきの電車代をそっとつまみ上げ、
「啓ちゃん、バットを一つ買ってきなさい。わかってるでしょ?」
と言った。
啓吉は銅貨を七枚握りしめて外へ出た。
ガラス戸を開けると、チンドン屋の陽気な節回しが聞こえてきた。
「啓吉! あと、ちゃんと閉めて行くのよッ」
啓吉は返事もせず、もう路地を駆け抜けていた。
「しょうがないわね」
そう言って、貞子は瀬戸火鉢の小さな火種をかき集めた。寛子がお茶を持ってくると、貞子は体を揉みながら、「あのね、またお願いがあるんだけど……」と、本題を切り出した。寛子は、押入れの中から、子供の伸一郎の小さい布団を引っ張り出すと、「また姉さんのところの子を預かるのね」というような顔つきで、寝ている礼子にそれを掛けてやりました。
四
啓吉は、賑やかな町へ出てこられたことが嬉しくてたまりませんでした。
路地を抜けると、美味しそうな食べ物の匂いがする商店が、肩を寄せ合うようにして並んでいます。
豆レコードを売っている店からは、ずっと唱歌が流れていて、赤や緑の広告ビラを何枚ももらえました。
ピカピカした陳列ケースが店ごとに並んでいて、そこに頭が大きくて目が飛び出た自分の小さい姿が映り込むのが、なんだか恥ずかしかったです。
手のひらには、七枚の銅貨が握られていて、汗でじっとりしています。
「これでガラスの壺は買えないかな」
ふとそんなことを考えてガラス屋の前に立ってみましたが、どの値札も高すぎて手が届きません。
やけくそになって、ぴょんぴょんと片足で溝を飛び越え、タバコ屋へ入ろうとしたとき、「おーい、啓ちゃん!」と呼ぶ声がしました。
例の癖で、白目をぎょろりとさせて振り返ると、猫背の叔父さんが立っていました。
「母さんと一緒に来たのかい?」
「ああ、さっきね」
「なんだ、タバコでも買うのか?」
「うん」
勘三は、いかにも疲れ切った様子で、埃をかぶった髪の毛をかき上げながら、「いいお天気だけどねえ」とつぶやきました。
思わず啓吉が空を見上げると、晴れやかな夕暮れで、灯り始めた町の明かりが、水で洗ったかのように鮮やかでした。
「タバコを一本ちょうだい」
「ああ」
小さい啓吉がタバコを差し出すと、勘三は丁寧に銀紙を破って、新しいタバコに火をつけました。
「叔父さん、歩いて帰ってきたの?」
「ああ、歩いて帰ってきたんだよ」
「遠いんだろう? 東京駅の方まで行ったの?」
「うん、いろんなところへ行ったさ」
「面白かった?」
「面白かった……だと? 面白くなんてあるものか。どこもかしこも大入満員でさ、叔父さんが入り込む隙間なんて一寸もないんだよ」
「ふーん。割引の時間まで待てば空くんじゃないの?」
「お腹が空いていて、割引までなんて待ってられないよ。そんなに待ったらミイラになっちまう」
勘三はタバコの煙を美味しそうにふうと吐き出すと、啓吉の大きな顔を押さえて、「叔父さんに金が入ったら、何か啓坊に買ってやろうか?」と言いました。
「本当に、お金が入ったら買ってくれる?」
「ああ、買ってやるよ。きんつばでも大福でもな」
「そんなの、女の子が好むようなものは嫌だよ」
「おや、この野郎、生意気なことを言うね! じゃあ何がいいんだ?」
「あのね、あのガラスの平べったい壺が欲しいんだけど……」
「ガラスの壺? 金魚でも飼うのかい?」
「…………」
「まあいい、そんなものなら安い御用だ。叔父さんが立派なやつを買ってやるよ」
コロッケ屋からは、動物の油のような独特の匂いが漂ってきます。
勘三が三尺帯をぐっと下げると、お腹がぐりぐりと鳴りました。
啓吉は顔を見上げて、「叔父さんのお腹、よく泣くんだねえ」と笑いました。
「ふん、誰かさんみたいだな。叔母さんは何かご馳走してくれなかったのかい?」
「知らないよ」
「そうか。まあ、とにかく七、八里も歩いたんだから、お腹も鳴るさ……」
チンドン屋が、啓吉たちの横をすり抜けて、路地の先にあるお稲荷さんの境内の中へ入っていきました。
五
「やあ、お帰り。……どうだった?」
「駄目だよ……」
「だから言ったでしょう。記者の頭なんて晴雨に関係なく固いんだから、そんな原稿を背負っていったって駄目なものは駄目なのよ。
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