初級翻訳・海底の魔術師 第5話

江戸川 乱歩

あれから半月もたつのに、賢吉君のまわりでは何も起こらないのですから、もう大丈夫だという気がしていました。
ところが、そうではなかったのです。
宿題の難しいところにさしかかったので、賢吉君はそれを考えるために鉛筆を置いて、目の前の空間を見つめていました。
すると、目の前になんだか、もやもやと動いているものがあるのです。
おやっと思って、目を凝らしてそこを見ました。
机の向こうにはガラス窓があります。
カーテンを閉めていないので、そこからまっ暗な庭が見えています。
そのまっ暗な中に、なにか黒いものがもやもやと動いているのです。
闇の中に黒いものなのでよく見分けられませんが、何かがいることは確かでした。
人間かと思いましたが、人間ならば顔は白く見えるはずです。
どうも人間ではなさそうです。
人間ではないけれど、人間と同じくらいの大きさのものです。
ゾーッと背中が寒くなりました。
その黒いものは、だんだんこちらへ近づいて来ます。
もう窓ガラスのすぐそばまで来ました。
ぼんやりと形が見えます。
それは今まで一度も見たことのないような、薄気味悪く、へんてこなものでした。
ギョッとして、心臓がのどのところまで飛びあがるような気がしました。
その怪物が窓ガラスにぴったりと顔をくっつけて、賢吉君をにらみつけたからです。
ひたいの下がゴリラのようにくぼんでいて、その奥からリンのように青白く光る、ふたつの目がのぞいていました。
口は耳までさけていて、そのくちびるの間から二本の牙が、ニューッと伸びていたのです。
それは人間の顔ではありません。動物の顔でもありません。
なんだか正体のしれないものです。
顔ぜんたいが、まるで鉄のように黒々と光っているのです。
賢吉君は逃げ出そうとしました。
しかし、リンのように光る目でにらみつけられると、ちょうどヘビににらまれたカエルのように、もう身動きができなくなって、椅子に座ったままじっとしているほかはありませんでした。
それから、もっと恐ろしいことが起こりました。
ガラス窓が、ジリジリと下から上へ開き始めたのです。
怪物が外から、上下に動く窓を押し上げているのです。
それでも賢吉君は、まだ逃げる力がありません。
まるで椅子にしばりつけられたように、体がまったく動かないのです。
そして目は怪物の方に引きつけられ、見まいとしても、そちらから視線をそらすことができないのです。
窓は少しずつ、少しずつ上の方へ開いていきました。
そして四十センチほど開いたとき、怪物の顔がニューッと窓の中へ入って来ました。
ふたつの目は青い炎のように燃えています。
頭の上には、気味の悪いトサカのようなものが鋭く突き立っています。
それから口が……。
その耳までさけた口が、キューッと三日月形に開いて、
「ジャ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ……」
と笑ったのです。
鉄と鉄がすれるような、恐ろしい音をたてて笑ったのです。

怪物のゆくえ

賢吉君は、思わず「ワーッ!」」と叫んで、椅子から立ち上がり、ドアの方へ逃げようとしましたが、その瞬間、頭がフラフラして目の前がスーッと暗くなり、そのまま気を失って倒れてしまいました。

「なんだか、いま変な声がしたようだね」

賢吉君のお父さんが、奥の部屋から茶の間に出てきました。

「賢吉の部屋のようですわ。どうしたんでしょう。あなた、行って見てくださらない?」

お母さんも心配そうな顔で立ち上がっていました。

「行ってみよう。戸田君も、いっしょに来たまえ」

お父さんは、廊下にいた書生の戸田君を連れて、賢吉少年の勉強部屋へ急ぎました。

「賢ちゃん、今、なにか言ったかい?」

ドアの外から声をかけても、なんの返事もありません。それどころか、部屋の中ではなにかゴトゴトと、妙な音がしています。

「だれだっ、そこにいるのは!」

書生の戸田君が怒鳴ってドアを開けようとしましたが、中から鍵がかけてあることがわかりました。

「へんですね。賢ちゃんは、めったに鍵なんかかけたことがないのに……。同じ鍵が、もうひとつ茶の間にありましたね。ぼく取ってきます」

戸田君はそう言って駆け出していきましたが、すぐに引き返してきて、その鍵でドアを開けました。すると、ひと目部屋の中を見たふたりは、思わず「あっ」と声を上げずにはいられませんでした。賢吉少年が倒れているばかりではありません。本箱や机の引き出しが全部引き抜かれて、その中のものが部屋いっぱいに散らかっていたからです。

お父さんは賢吉君のそばに駆け寄って抱き起こし、「賢ちゃん、賢ちゃん」と呼んで、その体をゆり動かしました。すると賢吉君は、やっと気がついて目を開き、いきなりお父さんの体にしがみつきました。

「どうしたんだ。いったい、どうしたというんだ」

お父さんは、散らかった部屋の中や開いた窓を見て、不審そうに尋ねました。賢吉君はお父さんにしがみついたまま、そっと部屋の中を見回しましたが、さっきの恐ろしいやつはもうどこにもいないことがわかりました。

「窓から、お化けが入ってきたのです。体にウロコが生えた、牙のある恐ろしいやつです。ぼく、そいつに食われてしまうかと思いました。きっと窓から出ていったのです。まだ庭にいるかもしれません」

賢吉君はそう言って、ガタガタ震えていました。お父さんはそんな怪物がこの世にいるとは思えませんので、賢吉君が夢か幻でも見たのではないかと疑いましたが、それにしては部屋の中が引っかき回したように散らかっているのが変です。お父さんは開いたガラス窓に駆け寄って、真っ暗な庭を見回しました。しかし、庭にはなにもいる様子がありません。

「おやっ」

お父さんはそのとき、窓の敷居に恐ろしい掻き傷ができているのに気がつきました。それは大きな、鋭い五本の爪でグッと引っかいたような、生々しい跡でした。

「おい、戸田君、この傷を見たまえ。なんだか動物の爪の跡のようじゃないか」

「そうですね。今朝までこんな跡はついていませんでした。ひょっとしたら、本当にあやしいやつが入ってきたのかもしれませんね」

書生の戸田君も、顔色を変えていました。

「よし、庭へ出てみよう。足跡があるだろう。君、懐中電灯を持ってきなさい」

賢吉君はさっきから様子を見に来ていたお母さんにもしがみついて、震えていました。お父さんと戸田君は部屋を出て、庭のほうへ回っていきました。ふたりが庭に降りて懐中電灯で調べてみますと、土の柔らかいところに、実にぞっとするような怪物の足跡が残っていることがわかりました。それは鋭い爪のある巨大な動物の足跡としか考えられないようなものでした。

こういう証拠を見ては、もう放っておくわけにはいきません。お父さんはすぐに警察へ電話をかけて、ことの次第を知らせました。その電話を聞いて警察でも変だと思いましたが、賢吉君のお父さんは大きな会社の重役を務めている町でも有名な実業家でしたから、まさかデタラメではあるまいと、とりあえず三人の警官が自動車を飛ばして賢吉君の家へやってきました。そして家の中と庭とをくまなく調べましたが、窓の爪の跡と庭の足跡のほかには、なにも発見できませんでした。

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