初級翻訳・火星兵団 第50話

海野 十三

これがもし三日も早かったら、せっかく来ていただいても、お断りしなきゃならないところじゃった」
「へえ、そうかい。
僕は運がよかったというわけだね」
 先生は、笑いながら、昔の勝手をよく知っている部屋へと上がっていった。
弓形のおじいさんは大喜びして、新田先生をいろいろともてなしてくれたが、先生が長い間、病気で倒れていたと聞いて、とってもびっくりした。
「そうけえ、そうけえ。
まあ、なおって本当によかった。
体が元のようになるまで、うちの温泉にゆっくり浸(つ)って行きなせえ」
 老いた主人は、昔と変わらない親切を、新田先生に向けてくれたのだった。
その親切が、かえって新田先生の心をしめつけ、切なくさせた。
これがいつもなら、すっかりのんびりした気分で、お風呂でのんびり浸かっていられるところだったが、今度はそうはいかない。
モロー彗星は、あと一ヶ月で地球に衝突してしまうのだ。
この掛矢旅館ののんびりした空気も、三方を高い山に囲まれた静かな景色も、あと少しでおしまいになってしまうのだ。
そう思うと、先生の心はかえって暗くなるのだった。
宿の主人の弓形さんは、モロー彗星のことなど、まだ何も知らないようだった。
この地球がくだけて、空の彼方へ吹き飛んでしまうその最後まで、この心の優しいおじいさんは、何も知らないまま人生を終えてしまうのだろうか。
(これは何とかしなければならない!)
 みんなを心から愛する新田先生の熱い気持ちが、先生の血をわきたたせる。
春とはいえまだ肌寒い掛矢温泉の、岩に囲まれたお風呂の中で、新田先生は体を思いっきり伸ばして、すでに二、三日を過ごしていた。
温泉の効き目はとても早かった。
先生の体から、病気のあとの疲れがみるみるうちに消え去っていき、ほっぺたにも血の気が戻ってきた。
「ああ、ありがたいことだ」
 先生はお風呂から上がって、手ぬぐいをブラブラとぶらさげたまま、自分の部屋へと戻ってきた。
すると、そのあとを追うように、この旅館の主人である弓形さんが、お茶とお菓子を持って部屋に入ってきた。
「温泉のほうは、いかがでございましたかな、新田先生」
「ああ、ありがとう。
今日はまた、格別にいい気持ちだったよ」
「それはそれは、よかったでございます。
まあ、お茶でもいれましょう」
 おじいさんは鉄瓶(てつびん)のお湯を急須(きゅうす)に注ぎながら、膝の上に手をきちんとおいた。
「ご主人に、この前からお聞きしようと思っていたのですが……」
 と言いながら、新田先生は、ぬれた手ぬぐいを手すりにかけて、自分の席に戻ってきた。
「はあ、どのようなことで……」
「昨日の夜も見かけたんですがね、温泉に入りながら、まっ暗な山を見上げていると、こっちの方向にある山の上の方に、チラチラと薄赤い火が見えたり消えたりするんですが、あれはいいったい何なんですかね」
「はあ、あの火をご覧になったのでがすか」
 と弓形おじいさんは、お茶わんを盆の上に置いて、新田先生の前に差し出しながら言った。
「あの火は、わしらもいったい何の火だろうかと、みんなでうわさし合っているのでがすよ」
 南の山の上に、チラチラと見えたり消えたりする火! 先生が気になっておじいさんに尋ねると、おじいさんも知らないと言う。
「昔から、あの火はあるのですか?」
 と、新田先生はたずねた。
山の上の火のうわさについて聞くと、弓形おじいさんの顔が少しこわばった。
「それがですね、先生、けっこう最近のことでがすよ。
昔は、あんな火は見えなかった」
「ああ、そうかい」
 新田先生はうなずいて、
「あの火はいいったい何の火なんですかね」
「さあ、それがどうも正体がまったくわからないのでしてな」
 弓形おじいさんは、首を左右に大きく振った。
「この村の人で、誰もあの火のことについては知らないのかなあ。
なんだかちょっと、気味が悪くて気になる火じゃないですか」
「新田先生、あそこまでは道がとてもけわしくて、人間なんか近づけないのでがすよ」第一、途中はこの間まで雪がふかくて、とても上れなかったんです」
「それで、あの火のところまで、行ってみた者がないというわけですね」
「この村の者じゃないが、一週間ほど前に、一人の男が、あの火のことをうわさしながら、上って行きましたがな。
あの男はどうなったかしら」
「ほう、誰かあの火のところへ、出かけた者があるのですね。
それはどこの者です。
そうして、まだ山を下りて来ないのですか」
 新田先生は、ふかい雪をふみ分けて、あの火のそばへ上って行った者があると聞いて、たいへん興味ぶかいことに思った。
「それは、東京の人だと言っていましたがね。
名前は、わしが聞いても、いや、いいんだと言って、言わないでがすよ。
もっともその人はこの雪をふみ分けて、あの山を越え、向こう側の垂木村へ下りて行くのだと言っていたから、こっちへは下りて来ないことになっていたんでがすよ」
「ほう、この雪の中を、山越しに垂木村へ下りるというんですか。
そいつは風がわりな人だなあ」
 新田先生は、何だか、この人のことが気になって仕方がなかった。
山の上に、ちろちろと、見えかくれする怪しい火に、新田先生は、たいへん興味をおぼえたので、その翌朝、先生は、掛矢温泉の老主人がとめるのも聞かず、一人山をのぼって行った。
たいへんな元気であった。
新田先生は、山のぼりについては、いささか経験があったから、ありあわせの綱を借りたり、杖をこしらえたり、また蝋燭などをもらい、一夜ぐらいはすごせるほどの食料品も用意して、出かけたのであった。
山道は、かなりけわしかった。
病後の新田先生には、なかなか骨の折れる山のぼりだった。
だが、経験はえらいもので、しずかにのぼって行くうちに、おひるすぎには、もうその高い山のてっぺん近くまで、たどりついた。
てっぺんに出れば、怪火の正体も、きっとわかるにちがいないのだった。
山は、まだ冬のままのすがただった。
雑草は、のこりの雪の下から枯れたまま、黄いろいかおを出していた。
それでも、春はもう近くまで来ているものと見え、枯草のあいだに、背のひくい青草がまじっていた。
けけけけっ。
とつぜん、羽ばたきをして、新田先生のあたまのうえに、飛びあがったものがあった。
なんであろうと、新田先生が、上を見あげると、それは一羽の大きな鳥であった。
きじのようでもあったが、なんという鳥か、はっきりしない。
その鳥は、春めいて来たので、岩穴から外へ出て、餌をひろいもとめていたところを、先生が、おどろかしたものであろうとおもった。
その、名も知れぬ鳥は、空高く飛びあがると、あわてふためいて、峰つづきのとなりの山の方へ飛んで行ってしまった。
先生は、その鳥の行方を、じっと見送っていたが、そのうちに、
「おや」と叫んだ。
山のてっぺんは、すぐ上に見えている。
新田先生が、今、「おや」と叫んだのは、そのてっぺんのしげみの間から、西瓜のように丸いものが四つ五つ重なり合って、動いているのを、見つけたからであった。
「あれは何だろう?」
 先生は、すぐさま体を地に伏せた。

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