初級翻訳・父を売る子 第4話

父を売る子

そこで彼女は、ちょっと彼をからかってやろうという悪戯心(いたずごころ)が湧いてきて、
「もしかして小説なの?」と訊ねた。
周子は、彼がものすごく嫌な顔をするだろうと予想していたのだが、意外にも彼は、おとなしく、そして心細そうな顔をしてうなずいた。
「小説――と一言で片づけてしまうのは、おそらくずるくて、下品なやり方なんだろうけれど……」
彼は聞き手が聞いているかどうかなどお構いなしに、顔を真っ赤にして独り言のように語り始めた。
「俺はここしばらくの間、自分の家のことについていろいろと考えていたんだ。
親父のこと、お母さんのこと、自分のこと、そして英雄のこと……」
「あなたでも、英雄かなんてことについて考えることがあるの?」
「黙れ! 考えると言っても別にそんな……」と、彼は険しい顔をして妻を遠ざけたが、今自分が口にしたほど重々しく、家のことだの親父のことだのお母さんのことだのを――そんなに深く考えているわけでもない――と思い直し、
「……おもに親父のことについてだけどな」と付け加えた。
「そして、とうとうどうしようもなくなってしまったんだ。」
「何が?」
「お前とは考えている立場が違うんだから、余計なことを訊くな――今こうしてすっきりしているところなんだ、どうしようもなくなって書くのをやめたんだからさ――」
「……」周子は、ぽかんとしてその場に立ち尽くしていた。
彼はそう言いながらも、あまりに情けない自分自身の思考のありさまを振り返り、その醜さに耐えきれなくなっていた。
たとえ妻の周子の前であっても、うっかりこんなことを口にして、自分の心のすさんだ片鱗を見透かされてしまったのではないか――などと思い悩み、さらに見苦しい自己嫌悪に陥るのだった。
……ああ、自分の家のことなんかを書こうとする浅はかな考えはやめにしよう……。
彼は心の中でそう誓った。
これまで彼はめったに小説を書かなかったが、書くとしても、それはおもに幻想的なおとぎ話や、抒情(じょじょう)的な恋愛の思い出ばかりだった。
だがこの頃は、そうしたテーマに対して情熱が持てなくなっていたのだ。それならば止めたほうがいい――彼は、そう言って「新しい熱情」を追い払った。
「ちょっと実家に行ってこようかな。」
「どっちの家?」周子はすぐにそう聞き返した。
彼が出かけるときは、周子は必ずそんなふうに問いかけるのだった。
そしてもし彼が、お父さんのほうだ――と言おうものなら、彼女はまるで夫の素行の悪い友だちを想像するかのように、嫌そうに顔をしかめるのだった。
もっとも、彼が出かけるときの目当ては、だいたい父親のほうだった。
「お母さんにちょっと用事があるんだ。」
「嘘、嘘。」と周子は笑った。
この勘繰り深さは彼のすごく気に入らなかったけれど、事実をうまく言い当てられていたので、「嘘とはなんだ。」と、あべこべにまるで無礼をとがめるかのように言い返した。
いや、お母さんのところにもちょっと寄るかもしれない――などと、自分に言い訳をしながら。
「今日これから、あたしお雛様の準備をするんだけど、手伝ってくれない?」
「ああ、もうそんな節句の時期だね。」
彼は、嘘をごまかそうとして後ろめたい気持ちになっていたところだったので、周子から見ると意外なほど明るい返事をした。
「男の子なんだから、お雛様なんて変じゃないか。」
「あたしがやるのよ。」
「ふざけるなよ。子どもみたいにはしゃぐのはみっともないぞ。」
「あなたに買ってもらうわけじゃないから余計なお世話よ。」
こんな無神経な相手にかかわってはこっちがやってられない――彼は自分の鈍感さのことは棚に上げて、愚かなプライドをのぞかせた。
こういうきっかけで喧嘩をするのは、もう彼はうんざりしていた。
その代わり心の中で徹底的に軽蔑してやるぞ――と決めた。
これもまた彼のずるいところで、本当は彼女の言葉を最初に聞いたときは、雛祭りの夜の女々しい華やかさにちょっと憧れていたのだった。
「じゃあごちそうを作るのか?」
「お客さんも二人来るはずよ。だけど肝人のお雛様がすごく貧弱で、あたしががっかりしてるの。」
「お雛様なんて紙のもので十分だ。――それじゃあお父さんと僕もお客さんに呼ばれようか。」
「お父さんは絶対いや――。
白状すると、怒らないでほしいんだけど……あなたもその晩はいないほうがいいのよ……」
「ハッハッハ……そんなことじゃ俺は怒ったりしないよ。その代わり俺、あさっては昼間からお父さんのところに行くからな。」
英雄はいつの間にか彼女の膝の上で眠っていた。
「ちょっと行ってくるよ。」
「また始まった。」
彼は、何か口実を作って出かけようと考えた。
「ああ、今日はめずらしく気分がすっきりした。」彼はそう言って、青い空を見上げた。
「テニスに行こうかな。」
「テニスなら行ってらっしゃいよ。」
「じゃあ行ってくるよ。」
彼は、しめしめと思って立ち上がった。
「シャツもう乾いてますよ。」
「今日は、ラケットの袋の中にパンツもシャツも入れて持っていくんだ。」
「怪しい、怪しい。」と周子は言った。
コートに着物を着替える場所がないので、いつも彼は家から外套の下に着込んでいくのだった。
――彼は、思わずドギマギして、
「それなら今から着ていくよ。」とふくれて言った。
海岸のなんとかという料理屋に東京のお客と一緒に来ているから、その人にお前を紹介したいんだ――という内容の伝言を、彼は父親から受けていたのだった。
彼は、十日ほど前に父親と一緒の席で出会った若いトン子という芸者が好きになっていて、またトン子に会えると思って内心すごく喜んでいたのだ。
そしてこういうチャンスが来るのをずっと待っていたのだった。
彼は、やけくそな気持ちで、妻からパンツとシャツを受け取ると、情けない手つきで素早くそれを身につけた。
「ジャケット? それとも外套?」
「和服の外套にしようかしら。」
妻は笑って相手にしなかった。
彼は本気で言っていたのだ。
彼の頭はぼんやりとしていた。
ズックの靴を履いて庭に飛び降りると、物置から自転車を引き出した。
そして道路に出ると、ヒラリとそれに飛び乗って、真っ直ぐな道を煙のように素早く走り去った。
このまま、海岸の料理屋へ行くことを決心したのだった。

三

最近彼は、また書きかけた小説『父を売る子』を書き始めた。
一度は仲たがいした父親との関係が偶然のきっかけで、もとに戻った。
現在の感情だけに支配されている最近の彼は、もう『父を売る子』を書きつづける気力がなくなっていた。
この間彼が上京するときの彼と父親とは、この小説の第一節とほとんど同じ場面を演じて別れたのだった。
『父を売る子』が書きつづけられないので、上京後彼は、題名は考えずにこの小説を書き始めたのである。
三つの家のことをそれぞれ書こうと思ったのだった。
そしてこれはもっと長くなるはずだった。
この小説の第二節の半ばまで、なんとなく書いて、これからももっと鋭く父親のことを書こうとして、彼はペンを置いた。
三月初旬の月がきれいな晩だった。
――前の晩に友だちと飲みすぎて、気分も落ち着かなかった。
彼は、その晩に父親の訃報を受け取った。

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