初級翻訳・猿飛佐助 第6話

猿飛佐助

ほかの誰に見せても、そなたにだけは、夢うつつの中でも見せたくなかった。
このアバタ面が、猿の衣装に裃をつけて、歌を詠むなんて短冊片手に首を振り、『アバタめが首を振る振る振るもよし振らざるもよし』などと、くすぐったくて口が腐っても言えるものか。
たとえ気が狂ったって、そんな姿は見せられようか。
アバタの穴が消せないままに、極意の秘伝でこの身を消して、雲の上から未練の一声――立つな、叫ぶな、探すな、座れ!
そこに座って聴くがいい、この胸のあふれる嘆きを。
猿飛佐助は、そなたの前から、今宵かぎりに姿を消そう。
あとは風任せ、足任せ、時には飛行の一足飛びに、日本全国を飛び回る忍術道中のわらじを履いて、履いて捨てるは毒舌三昧!
あぁ、これからが面白い旅になるというのに、そなたと別れるこの苦しさは、しばし旅寝の枕を濡らすことだろう。
楓殿、さらばだ!」
 相変わらずの、妙な調子のふざけた言葉を残して、上田城から姿を消した佐助は、歌の会の結果がどうなったかなんて知るよしもなければ、知ろうともしなかった。
 その夜のうちに飛行の術を使って、飛ぶわ飛ぶわ、まるですべてのものの怪にとりつかれたように空を駆け抜け、丑三つ時(午前二時頃)には京の都の東山の上空までやって来た。
 すると、ちょうどその時、南禅寺(なんぜんじ)の山門から立ち上る、なんとも不気味で陰惨な妖気を目にして、佐助は「何事だ」と思い、えいっとばかりに飛び降りた。
 そして、耳をすますと、やはり山門の楼上から、ひそびそと話し声が聞こえてきた。
「ほう、これは面妖(めんよう)な。
こんな丑三つ時に、時ならぬ人間の声がするぞ。
何? 伏見桃山、千鳥の香炉……? ふーむ、なんだか物騒で奇怪な言葉が聞こえてくるぞ」
 三町四方でノミが跳ねた音すら聞き分けるという佐助が、あやしい楼上の声を聞きつけて、そう独り言をつぶやいたその瞬間、一本の手裏剣が、佐助の眉間めがけてビューッと飛んできたのだった。

【水遁巻】

 南禅寺の山門に立ち上る不気味な妖気を見て、いきなり飛び降りた佐助が、ちょうど楼上から聞こえてきた「伏見桃山、千鳥の香炉……」という怪しい人の声を耳にした途端、一本の手裏剣が佐助の眉間めがけて飛んできた。
 佐助は「心得たり!」とばかりに宙でそれをひらりと受け止め、あたりをうかがうと、百日紅(さるすべり)のようにひょろりとしたあやしげな男が、どこか洒落気のある人物らしく、上方なまりの七五調をつらねながら、こう大声で怒鳴るのが聞こえてきた。
「時も時、草木も眠る丑三つの、所もあろうに我が山門に、紛れ込んだる不届き者! 熱に浮かされ夜な夜な歩く、夢遊病者か、はたまた風来坊か!」風の抜け方がちょっと変わっているその頭脳に、風穴の一つでも開けてやりたくて、悔し紛れに手裏剣を眉間めがけて投げてはみたが、宙で止められてしまうとは残念至極。おい、お前は一体どこの何者だ?」
 佐助はこの言葉を聞くと、風流を解する男に出会えたうれしさに、すっかり機嫌を良くして、
「開けて悔しい竜宮の土産、玉手箱もたまには開かぬ……」
 と、例の調子を弾ませて、
――開けてたまるか風穴一つ、と申すのもこの顔一面、疱瘡(ほうそう)の神が手練れの早業、百発百中の手裏剣の跡が、網代(あじろ)の目よりもなお厳重に、赤い鰯(いわし)のお前が手裏剣、あだなり一匹も逃がすまいと、見張って取り巻くあまたのアバタ、あの字づくしのアバタの穴が、空き地も作らず葦(あし)の丸屋、さては庵室(あんしつ)あばら屋と、軒を並べた雨戸を開ければ、朝日が昇る勢いに、薊(あざみ)の花の一盛り、あだな姿に咲き匂う、アバタの穴の花見酒、呆れが礼を言いに来る、あたる男を台無しにする、信州に隠れもないアバタ男、猿飛佐助とは俺のことだ!
 と、あの字づくしで言い返すと、楼上の男は心得たりと、
「いみじくも名乗ったな。
手八丁口八丁の、てっぱれ(見事)なる若者が、あの字づくしで名乗ったからは、いの字づくしで答えていこう。
――十六夜(いざよい)の月も石山の、陰(かげ)にかくれて一寸先も、いざりも這(は)えぬ暗闇に、隠れて悪事を働くいかさま者は、石川や浜の真砂(まさご)の数あれど、石の上にも三年の伊賀で覚えし忍術を、いざ鎌倉のその時に、使えばいかな敵もなく、いつも月夜と米の飯、石が流れて木の葉が沈む、今太閣の天下をば、命をかけた陰謀の、意地ずくどりの的にして、命知らずの一味党派、一蓮託生(いちれんたくしょう)の手下を従え、一気呵成(いっきかせん)にとりわかんと、一騎当千の勢いで、帷幄(いあく)は東山南禅寺、一に石川、二に忍術で、三で騒がす、四に白浪(しらなみ)の、五右衛門と噂に高い、洛中洛外(らくちゅうらくがい)隠れもない天下の義賊、石川五右衛門とは俺のことだ!」
 と名乗った。
しかし佐助は、石川五右衛門と聞いていも少しも驚かず、こりゃますます面白くなったわいと、ぞくぞくしながら、
「さては、伏見桃山、千鳥の香炉と囁(ささや)いたのは、桃山城に忍び込み、太閣秘蔵の千鳥の香炉を奪い取ろうという、よからぬ相談だったのだな」
 と詰め寄った。
すると五右衛門は、さては聞かれてしまったかと、しばらく唸っていたが、やがて大声を張り上げ、相も変わらず怪しげな七五調を飛ばしはじめた。
「石が物を言う世の習い、習わぬ経を門前の、小僧に聞かれた上からは、覚えた経(きょう)が飛鳥(あすか)の流れ、三途の川への引導代わり、その首もらった、覚悟しろ!」
 そう言い終えると、五右衛門は何かありげに十字を切って、
「――南無さつたるま、ふんだりぎや、守護しょうでん、はらいそはらいそ……」
 とおかしな呪文を唱えたので、佐助は危うく吹き出しそうになったが、必死にこらえた。
ところが、呪文が終わった途端、五右衛門の身体はいきなりぱっと消え失せたかと思うと、一匹の大ガマがドロドロと現われたので、佐助はついに堪え切れず、大笑いした。
「あはは……。
バテレン(南蛮人)もどきの呪文を唱えたかと思えば、現われたのは大ガマ一匹。
児来也(じらいや)ばりの伊賀流妖魔の術とは、何とも貧弱だな、笑えるぜ。
そっちが伊賀流なら、こっちは甲賀流。
蛇の道は蛇だ、一匹ひねり出せば、一呑みに勝負はつくものを。
だが、それでは少し芸がない。
見るところ、首をかしげて何を考えているんだか、寒そうなカエルめ、ちょっぴり温めてやろうか!」
 そう言ったかと思うと、佐助の身体はパッと消え失せ、一本の煙が立ちのぼった――と見るや否や、煙はたちまち炎へと変わり、あれよあれよという間に、あたり一面が火の海と化した。これが甲賀流・火遁(かとん)の術である。
炎はみるみるガマの背中に燃え移った。
ガマは驚いて飛び上がり、
「あっ! 熱い、熱い!」
 と情けない人間の声を出しながら、苦しみの油汗をポタポタと流した。
だが、五右衛門もただの男ではないので、いつまでもガマの我慢比べに甘んじてはいられず、再び「南無さつたるま、ふんだりぎや、守護しょうでん、はらいそはらいそ……」と必死の呪文を唱えると、ざあっと激しい雨を降らせた。
火遁の術を防ぐ水遁(すいとん)の術である。

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