旅籠という旅籠で割部屋をわざわざ頼んだのは、もしかしたら相客の中にその「首のない男」がいるかもしれないという強い願いからだったのです、と無敵は語り終え、
「――きっと君は、今の話を大笑いしているのだろう」
と、すっかり打ちしおれていました。
しかし佐助は、膝を「ぱんっ」と叩いてこう言いました。
「何を笑うことがありましょうか! 自分の首を懐に入れて都大路を駆け抜けたなんて、近頃まれに見るあっぱれな風流人じゃありませんか。私もそのセンスにあやかって、このあばた面を懐にしまって歩きたいくらいでござる。いや、私もその天下第一の風流な男にぜひともお会いしたくなった! 差し支えなければ、私もその旅にお伴させてくだされ!」
それを聞いた無敵は、「よくぞ言ってくれた!」と佐助の手をぎゅっと握りしめ、ハラハラと涙をこぼしました。昔、道場を荒された恨みなど、もうすっかり忘れてしまったのは言うまでもありません。
こうして翌朝から、二人は首のない男を探す旅へと出発したのです。「運よく捕まえて、奉行所に突き出してやればいい。そうすれば、奉行をはじめとしてすっかり面目を失い、やがてその慌てふためいた様子を隠すために、『おい、首のない者よ、お前が盗賊を働こうとした罪は非常に重い。今すぐ打ち首にしてやる』と、きっと慌てて言い渡すに違いありません。
そこであなたがすかさず、『いやいや、首のない者を打ち首にするとは、一体どうやって行うのですか。ぜひ今後の勉強のために見せていただきたいものだ』と言ってやれば、最高に溜飲(りゅういん)が下がるというものですよ」
と佐助が言うと、無敵は「それはいい、その通りだ!」と大喜びしました。そして、佐助のご機嫌を取ろうとして、
「歴史上の人物でいえば、山本勘助どのといえば、左目が少し不自由で右足を引きずり、背が低くて色黒で、あの武田信玄公さえもが驚いたという容姿をしておられましたが、知恵にかけては天下第一の素晴らしい頭脳の持ち主でしたな」
などと、佐助が喜びそうな話題を持ち出しました。そうして二人の旅はとても楽しかったのですが、肝心の「首のない男」には一向に出会えません。「これではいっそ、ろくろ首の棲家(すみか)を探し出して、首が遠出をしている隙を狙って、胴体を脇に抱えて逃げ出すのも一つの手だなあ」などと話しているうちに、「石田三成が徳川方の関東勢に対して謀反を企てている」という噂が耳に入ってきました。
そのため、首の胴体探しは一時中止となり、無敵は佐和山(さ和山)へ、佐助は中山道(なかせんどう)へと、それぞれ右と左に分かれて、一刻も早く上田へ急がなければなりません。佐助は、その六尺三寸(約190センチ)の長身を活かして大股開きで、真昼の中山道を夢中で走っていました。すると突然、
「おい、佐助。何をそんなに慌てているのかね」
と、まるで空の上から降ってくるような声が、三町四方(約320メートル四方)の範囲で蚤(のみ)が飛ぶ音さえ聞き分けることのできる佐助の耳に飛び込んできました。
「おお、そのお空からの声は、まさしく懐かしい戸沢先生ではありませんか!」
佐助は走りながらも、すがるような声を上げました。すると、空の声も微笑みを含んで、
「俺のこのしわがれ声が分かるか」
「分からないなんてことがあるでしょうか! 師匠のご恩は海よりも高く、山よりも深……、おっと間違えました。山よりも高く、海よりも……」
「何をうろたえているのか。落ち着きなさい、見苦しいぞ。
走りながら話すからそんなことになるんだ。第一、師匠に話しかけるのに走りながらとは何事だ」
「はっ! 失礼いたしました。――ご覧の通り、止まりました!」
「汗を拭きなさい。
お前のあばたの穴から、おびただしい数の汗の玉が飛び散っているぞ。実に醜態だな」
「はっ! ただいま!」
と言いながら汗を拭いていると、なぜだか師匠の優しさが身にしみてきて涙が出そうになったため、慌ててごまかしました。
「あばたの『ア』の字は、汗の『ア』の字でございますな。あはは……」
と、笑いにまぎらわせたのです。
「くだらない洒落(しゃれ)はよせ。
だいたいお前はダジャレが多すぎるんだ。
女のおしゃれと男のダジャレの度が過ぎるのは感心せんなぁ。
士農工商、どの身分であれ、師匠が小言を言うのは見苦しいものだが、ついでだから今度こそ戒めておくぞ。
……などと言いながら、ついこの俺もダジャレをしてしまったがな。ところで、さっきから何をそんなに急いでいるのかね?」
と尋ねられ、佐助が事情を説明して納得してもらうと、戸沢先生はこう言いました。
「――ならば、どうして飛行の術を使わないのかね?
ここ数日の君の振る舞い、時にはよく忍耐していて大変立派だ。
今からは、飛行の術や忍術を使っても構わないぞ」
思いがけぬその言葉に、佐助は「はっ、ありがたき幸せでございます!」と、その場に突然大地へひれ伏しました。
空からの声は、急に厳かな響きになり、
「だがな、飛行の術というのは、決して卑怯な者のための術ではない。めったなことでは卑怯な使い方をしてはならんのだ。そもそも忍術とは……」
「忍術とは……?」
佐助がすかさず尋ね返すと、戸沢図書虎(とざわとしょとら)先生は雲の上でなんだかそわそわしていらっしゃる様子で、
「忍術とは、ええと、忍術とは、ええ、忍、忍、忍……と。
うむ、うまいダジャレが思い浮かばんわい。
ええい、面倒だ!
語呂合わせはこれまで。
雷が待っておるぞ。
佐助よ、さらばじゃ!」
と、どういう風の吹き回しか、さんざんダジャレを言ったあと、先生の声はそこでプツリと途絶え、しばらくのお別れとなりました。
「ああ、ありがたい! かたじけない! まさに今日、この時刻に、あの飛行の術を許されるとは、まるで鬼に金棒だ!」
佐助が天にも昇るような心地がしたその瞬間、なんと佐助の体は、本当に天へとふわりと舞い上がっていました。
しかも佐助をさらに嬉しくさせたのは、「師匠が洒落るなら、自分も洒落よう。それを軽薄だと言うなら言うがいい、浮薄だと笑うならば笑うがいい。吹けば飛ぶようなダジャレくらい、誰にはばかって遠慮するものか。『洒落は礼儀に反する』などと書いた教科書はまだ見たこともないぞ!」という、大きくて伸びやかな気持(浩然の気)が、胸の底から勢いよくわき上がってきたことでした。
佐助はもう、ちっぽけな自己反省にとらわれることもなく、どこまでも広い空をのびのびと飛びながら、年老いたカラスが静まり返った森の上を飛ぶとき以外には誰も聞いてくれる者のいないダジャレを、おすましした高い声で調子よく飛ばし始めたのです。
「おお、この体が今や宙を飛んでいくぞ! これぞ甲賀流の飛行の術、空を飛んで急ぎの知らせを届けよう。信州の上田へと一足飛びだ!
空を飛ぶのは木の葉か、それとも沈むのは石田(三成)か?
徳川の流れに浮かんだ、あの葵の紋を目掛けて、思い切って飛ばした石田三成!
千成びょうたんを押し立てれば、天下分け目の大いくさだ。
月は東に、日は西に。その天下を沈めまいとして買いに出てきたぞ!
値打ちは六文銭の旗印、真田の城にひるがえれば、タヌキが泣いてサル(佐助)が笑う。
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