「誰でもいいさ」
「何しに来た」
「遊びに来た」
「遊びに?――島へ遊びになんか来られちゃ困るんだ」
僕は思わず彼の顔をまじまじと見つめました。
たしかに、言う通りかもしれません。
僕は適当に「遊びに来た」と答えたけれど、あの男に怒られたみたいに、僕の気持ちなんてただの気晴らしや遊びにすぎないのかもしれないなと思ったのです。
「いや、君は今度来た水産技師だな」と、その男は急に大声を出しました。
「そうだろ。
水産技師にちがいない」
いきなり僕の手をつかんで、
「君、頼むよ。
この島のために、どうかよろしく頼む」
と、すっかり自分で思い込んで、人なつっこい笑顔を浮かべました。
彼は明らかに酔っ払っていました。
「うん、うん」
「そうか、頼んだぞ。
今夜、遊びに来たまえ。
すぐそこの家だからな」
男は急に手を離すと、ピょこんとお辞儀をして、ふらつきながらすぐ下のほうにある汚い農家の庭へと入っていきました。
島の人で、最初に僕に強い印象を残したのは、あの酔っぱらいでした。
そのほかにも、「リュウさん」と呼ばれる人や、「タイメイ」という人などに出会いました。
僕は、島の人で学校時代に僕の二、三年先輩だった、一、二回しか会ったことがなくて顔もうろ覚えの檜垣(ひがき)という男を頼って島にやってきました。そして、島に着いてからずっと檜垣の家に厄介になっていたのです。その檜垣の家は、伊豆七島で一番の海産物問屋で、父親がその商売をやっていました。
檜垣自身は、専売局の出張所の役人をやっていました。
家のすぐ裏手に出張所の建物があって、檜垣はいつもそこで島の若者たちを集めておしゃべりをしたり、お茶を飲んだりしていました。
もちろん、檜垣はその中心人物です。
そこにはいろんな人がやって来ます。
近くのバター工場で働く技術の人や、背中に文字の入った印半纏(しるしはんてん)を着た男、コール天のズボンをはいた男などが、通りがかりにひょっこりやって来ては、三十分も一時間も座り込んでおしゃべりをしていくのです。
「リュウさん」もその仲間の一人でしたが、しかしもう若者とは言えない年齢でした。
彼の二人の息子のうち、お兄さんは無線通信の技術者をやめて島に帰ってきた男で、弟のほうも東京・銀座の不二家でボーイを七年もやっていたくらいでした。息子二人も出張所へ来る仲間でしたが、父親の「リュウさん」もやっぱりその仲間だったのです。
父親と息子たちは、似ているところがほとんどありませんでした。
檜垣の話では、「リュウさんはあれで昔、黒竜会(こくりゅうかい)の壮士だったんだ」ということでした。
でも、全然そんなふうには見えなくて、小柄で真っ黒に日焼けして痩せ細っていて、まるで東京の裏通りに住んでいる落ちぶれた骨董品屋(こっとうや)のような雰囲気でした。
彼は何かといえばすぐにうなずく癖がありました。
出張所に入ってくるとさっそくその癖が出ます。
「ウン、ウン、ウン」と聞こえないくらいの小さな声で言いながら、独特の笑顔を浮かべ(そんなときには、切れ長の目がクシャクシャに小さくなります)、その場にいる誰に対しても頷いてみせるのです。
自分が話す番になると、その回数はもっと増えます。
話が盛り上がってくると、あまりにも激しくうなずくものだから、腰かけている椅子がガタガタと音を立てて動き出すほどでした。
椅子のせいで滑り落ちそうになると、慌てて姿勢をなおして椅子に深く座り直すのですが、すぐにまたうなずき始めるのです。
それに、喉が悪いのか、奇妙な咳をしました。
ちょうど鶏が時をつくる時のけたたましさに似た、思いがけないほど高い声で咳をするのです。
どこにいても、それこそかなり遠くにいても、その咳を聞けば「リュウさん」だとすぐにわかるのだそうです。
ちょうど檜垣からその話を聞いていたとき、出張所の脇の道のほうから例の咳が聞こえてきて、「ほら来た」と言っていたら案の定「リュウさん」だったので、みんなで大笑いしたことがありました。
また、彼の話しぶりそのものも、あの咳やうなずき方と同じように突拍子もなくて、黒竜会の壮士だったという話も、いくらかは本当にそういう過去があったのだろうけれど、あの独特の話しぶりからもきているのだろうと思いました。
みんなが「リュウさん」と呼ぶものだから、僕は「竜さん」という名前だと思い込んでいましたが、本当の名前は「隆(たかし)さん」でした。
それから、「タイメイ」という人は若い指物師(さものし)で、彼もまた東京に何年か出ていたのですが、病気をして島に帰ってきているのだそうです。
なんだか亀の名前みたいですごく変だなあと僕は思っていたのですが、「リュウさん」のこともあったので気になって漢字を訊いてみると、「泰明(たいめい)」という立派な名前だったので、よけいに面食らってしまいました。
その「タイメイ」さんが、医者からの帰りだと言って薬の瓶をさげながら部屋に入ってきたのです。銘仙の光る着物をすそ長く着て、帯を腰の低い位置で結び、ロイド眼鏡の鼻にあたる部分が橋のようにつながっているものをかけていました。その顔は、島の人たちには似合わないほど白かったのです。
さらに、全体の様子にはどこかちょこちょことせわしないところがありました。椅子に腰かけるときも、あたりを歩くときも、腰を低く落として、変に柔らかく、遊び人のような雰囲気を漂わせているのでした。
「病気は一体なんだい?」と、檜垣がからかうような調子で尋ねました。
「ええ、まあ、神経衰弱ですね」
相手のからかうようなトーンに用心している様子で、タイメイさんはにやにやしながら、ちらっと上目づかいに見て言いました。
「おれはさ、タイメイが病気だって聞いたから、医者にどんな病気なのか聞いてやったんだよ」
檜垣はわざとものすごく真面目な顔をして、それからニヤリと笑うと、こう続けました。
「神経衰弱なんかじゃないだろう?」
「えへぇ、にいさんったら、もう。そんなんじゃありませんよ」
それを聞いて、その場にいたみんなが一斉に吹き出して笑い出しました。
「にいさん」というのは、みんなが檜垣を呼ぶときの呼び方でした。
タイメイさんは、あとから何をからかわれるかと気にして、音を立てないようにそっと窓のほうへ寄り、人の目につかないように用心していました。しかし、檜垣が指物(木工細工)の話を持ち出すと、急に元気が湧いてきたのです。
彼は本当によくしゃべりました。
目の前に出された置物台の木目(もくめ)を調べたり、指先で寸法を測ったり、コンコンと台の脚を叩いたりしながら説明するのですが、その手つきにはどこか他の人には真似できない巧みさがありました。他の人が持ったときよりも、彼の手にあるときの置物台のほうが、なぜか生き生きと見えるのでした。
檜垣は僕のために、島めぐりの案内人をつけようと言って、
「そうだ、タイメイならちょうどいいだろう。あいつならおもしろい男だし、うってつけだ」
と話していたのですが、その話を聞くと、タイメイさんはすぐに快諾してくれました。
初級翻訳・石ころ路 第2話
田畑 修一郎
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