そして、杖のあやしい点には気づかずに、そこそこにそこから下がっていった。
「若君、けっして手をおふれなさるな、この様子では、これもあやしい」
と、膳の吸い物椀をとって、中の汁を部屋の白壁にぱっとかけてみると、墨のようにまっ黒に変化して染まった。
「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。
伊那丸さま、家康の心はこれではっきりわかりました。
うわべはどこまでも柔和に見せて、わたしたちを毒殺しようという腹でした」
「ではここもか?」
と伊那丸は立ちあがり、塗籠の出口の戸を押してみると、はたして開かない。
力いっぱい押せども引けども開かなくなっている。
「若君――」
龍太郎は案外落ち着いて、何か伊那丸の耳にささやいた。
そして、夜のふけるのを待って、足帯(あとおび)、脇差などしっかりと身支度をしはじめた。
やがて龍太郎は、笈の中から取り出しておいた一体の仏像を部屋の隅においた。
そして燭台の灯をその上へ横倒しにのせかけた。
部屋の中は一時期やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、前にも増して明るい炎を立ててきた。
龍太郎は伊那丸の体をしっかりと抱きしめ、反対の隅に寄った。
そして、できるだけ身を縮めながら、じっとその火を見つめていた。
プス……プス……炎は赤くなり、紫色に変わっていくうちに、パッと部屋の中がまっ暗になった瞬間、チリチリッと細かい火の粉が仏像から美しくほとばしりはじめた。
「若君、耳を、耳を」と言いながら龍太郎も固く目を閉じた。
その時――
轟然たる音響とともに、仏像の中にしかけてあった火薬が爆発した。
――浜松城の二の丸の白壁は、雷火に裂かれてくずれ落ちた。
ガラガラとすさまじい震動は、本丸、三の丸までも揺るがした。
一大事とばかりに旗本や役人たちが武器を持って駆けつけてみると、外郭の白壁が落ちたところから、勢いよく吹き出している怪火! すでに櫓(やぐら)へまでも燃え移ろうとしているありさまだ。
「火事だッ、火事だッ――」
降りかかる火の粉を浴びて、口々にうろたえた顔を上に向かせていると、ふたたび、どっと突きくずしてきた白壁の口から、紅蓮の炎をついてあらわれた者がある。
無反りの戒刀をふりかぶった木隠龍太郎、つづいて武田伊那丸の姿。
「曲者だッ」
と下では、騒然と人が渦を巻いた。
その白刃の林をめがけて、炎の中かしらひらりと飛びおりた伊那丸と龍太郎――
ああ、その危うさよ。
三
小太刀をとらせては、伊那丸はふしぎな天才児である。
木隠龍太郎も戒刀の名人、しかも隠形の術(いんぎょうのじゅつ)で得た身の軽さも備えている。
けれど、伊那丸も龍太郎も、けっしてただの匹夫の勇(ひっぷのゆう:向こう見ずな勇気)に走る者ではない。
どんな場合にもうろたえないだけの修養はある。
――なのに、なぜこんな無謀をあえてしたのだろう? 白刃が林のように立つ中へ肉体を投げ込めば、たちまち剣の先でめちゃめちゃに刺されてしまうのは、あまりにも分かりきった結果だというのに。
しかし、ひとたび人間が信念に身をかためて向かう時は、刀の刃も折れ、どんな悪鬼も羅刹(らせつ)もかならず退けうるという教えもある。
ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。
飛びおりた五尺の体もまた、信念の鎖帷子(くさりかたびら)をきこんでいるのだった。
「わっ」
とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが頭上へ飛びおりてきた勢いにひるんで、思わずさっとそこを開けてしまった。
どんとふたりの体が下へ着くやいなや、一斉に乱刀の波がどっと斬りつけていったが、
「退(の)けッ」
と龍太郎の手からふりだされた戒刀の切っ先に、足もとが乱れる。
それをめがけて伊那丸の小太刀も、飛ぶ矢のごとく突き進んだ。
たちまち火花が散り、たちまち剣の音が響き、斬りおられた槍は宙に飛び、太刀の先に当たった者は残忍なうめき声をあげて倒れた。
「退けッ! だめだ」
と城の塀にせばめられて、人数の多い城兵はかえって自由に動けなかった。
武士たちはふたたび、見みっともなく逃げ出した。
龍太郎と伊那丸は血刀をふって追いちらしたうえ、昼間のうちに見ておいた本丸をめがけて駆けこんでいった。
家康に近づいて武田一門の思いを知らせようと思ったことは破れたが、せめて一太刀でも彼に浴びせかけなければ――浜松城の奥深くまではいってきたかいがない。めざすは本丸!
あいてはひとり!
と、ほかの雑兵には目もくれないで、まっしぐらに、武者走り(城壁の細道)をかけぬけた。
天の筏(いかだ)
一
矢倉へむかった消火隊と、武器をとって討手にむかった者が、あらかたである。
――で、家康のまわりには、わずか七、八人の近侍がいるにすぎなかった。
「火はどうじゃ、手はまわったか」
寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の四阿(あずまや)へ足をむけていた。
すると、闇のなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。
「や!」
と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの武士が、大地へ両手をついた。
「お上、武田の主従が、火薬をしかけたうえに狼藉(ろうぜき)におよびました。
ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。
はやくお奥へお引きかえしをねがいまする」
「おう、坂部十郎太か。
たかが稚児(ちご)どうような伊那丸と六部の一人や二人が、檻(おり)をやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。
それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、矢倉へむかえ!」
「はッ」と十郎太が、立ちかけると――
「家康ッ!」と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇のうちからながれきたった一閃(いっせん)の光。
「無礼ものッ!」
とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康の袖を、さッと、白い切ッ先がかすってきた。
「何者だ!」
とその太刀影を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった十郎太の陣刀。
「お上、お上」
と近侍のものは、そのすきに、家康を屏風(びょうぶ)がこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。
「無念ッ――」
長蛇を逸した伊那丸は、なおも、四、五間ほど、追いかけてゆくのを、待てと、坂部十郎太の陣刀が、そのうしろから慕いよった。
と、伊那丸はなんにつまずいたか、ア――と闇をおよいだ。
ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた龍太郎が、やッと、横ざまに戒刀(かいとう)をもって、薙(な)ぎつけた。
「むッ……」と十郎太は、苦鳴をあげて、たおれた。
「若君――」
と寄りそってきた龍太郎、
「またの時節があります。
もう、すこしも、ご猶予は危険です。
さ、この城から逃げださねばなりませぬ」
「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。
わしは無念だ」
「ごもっともです。
しかし、伊那丸さまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。
家康ひとりは小さな敵です。
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