初級翻訳・神州天馬侠 第42話

吉川 英治

竹童は勇んで、
「それじゃあ夜中になったら、またすごい戦いが始まるな。僕も今からしっかり英気を養っておかなくちゃ……」
 と言うと、飼っている鷹のクロを抱き、お堂の隅でゴロリと横になって寝てしまった。
ところが、寝入るか寝入らないかのうちに、
「おや、笛が鳴ったぞ」
 と頭をもたげてキョロキョロあたりを見回した。
見ると、咲耶子(さやこ)がたった一人で社前の大きな楠(くすのき)の切り株に立ち、例の横笛を口に当てて、澄んだ音色を響かせているのだった。
竹童は最初は、何のために吹いているのか不思議がっていたようだが、やがて笛の音が裾野の闇へと広がっていくと、あちらこちらからムクムクと野武士たちの影が姿を現した。
あっという間に七十人あまりにも膨れ上がり、咲耶子の前に整列したのを見て、竹童はびっくり仰天した。
咲耶子は集まった野武士たちに何かを言い渡した。そして静かに伊那丸の前に歩み寄り、
「この者たちは、いずれも父の小角(おづぬ)に仕えていた野武士たちです。今日まで私と共にこの裾野に隠れ、いつか呂宋兵衛を討って仇を報いようと誓っていた忠義者たちです。どうか今夜からは、私と共に味方に加えていただけませんでしょうか」
 伊那丸は満足そうに頷いた。
この局面で七十人の兵がいるかいないかは、小幡民部が軍配を振るう上でも大きな違いとなる。
ましてや、今ここに集まった者たちは皆、日頃から咲耶子の「胡蝶の陣」で鍛え上げられた精鋭ぞろいだ。
こうして一同は、敵に気づかれないよう、慌ただしくかがり火を消し、刀の音を潜め、矢の準備や刃の手入れを行い、馬に草を食べさせながら、決戦の時をじっと待ちわびた。
時が過ぎ、夜は深まり、三更(午前二時頃)を迎えた。空は冷たく澄み渡り、小さな星の一粒までが研ぎ澄まされたように輝き、三千丈の銀河が夜の富士山を横切るように斜めに架かっているのが見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
 そんな中、竹童だけは鷲の翼を羽布団にして、実に気持ちよさそうに、いびきをかいて眠りこけていた。

魔人隠形の印

一

 まさに、夜は子の刻。
人穴の殿堂を守る三つの洞門が、ギギギ……と音を立てて開いた。
すると、その中から真っ赤な炎が流れ出してきた。半町(約五十五メートル)も続く、炎の行列だった。
無数の松明(たいまつ)。その影でうごめく野武士、馬、槍、十字架、旗のすべてが、まるで血のように赤く染まって見えた。中でも、一丈(約三メートル)ほどの白木の十字架は、八人の手下にゆらゆらと支えられ、そのすぐそばに呂宋兵衛が、南蛮の錦(にしき)で仕立てた陣羽織をまとい、白馬にまたがって、十二人の屈強な騎兵に守られながら、妖しい雰囲気で裾野の露を払って進んでいきました。

進むこと二、三里。広い平野の真ん中へ出ました。
呂宋兵衛はひらりと馬から飛び降りると、二、三百人の野武士たちを指揮して、あっという間にそこへ壇を築かせ、十字架を立て、かがり火を焚いて、祈りの準備を整えさせました。

「念珠を、念珠をここへ――」
呂宋兵衛は、以前にも述べた通り、南蛮の血を引く混血児であり、キリシタンの妖術を操る者です。そのため、「層雲くずれ」の祈祷も、自分が信じる異国の作法で行うつもりのようです。
手下から念珠を受け取ると、それを首にかけ、胸元には白金の十字架を垂らし、静々と壇の前へ歩み寄りました。
護衛する野武士たちは、咳ひとつ立てず、一斉に槍の穂先を揃えて並びました。
その中には、今日味方に加わった穴山家の残党である足助主水正、佐分利五郎次といった者たちも混じっています。

壇に向かって七つの赤いロウソクを灯し、金明水、銀明水の浄水を捧げると、そこにひざまずいた呂宋兵衛は、何と言っているのか分からない祈りの言葉をぶつぶつとつぶやきながら、一心不乱に空の星に向かって祈り始めました。

すると、どこからともなく、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと草をなでてくるような風の音が聞こえてきました。
続いて、大地を叩くような馬蹄の響きが迫ってきます。

「や!」
呂宋兵衛はぎょっとして頭を上げました。
「あの物音は? あの響きは? おお、馬だ! 人の声だ! 油断するな!」

叫ぶか叫ばないかのうちに、ピュッ、ピュッと風を切って飛んでくる、霰(あられ)のような征矢(そや)。
――早くも四方の闇から、「ワワーッ!」という雄叫びが聞こえ始めました。

「さては武田伊那丸が来たか」
「いやいや、咲耶子が仕返しにやって来たのだろう」
「うろたえるな! かがり火を消せ! 早く松明を捨ててしまえ、敵の標的になるぞ!」

あたりはたちまち、真っ暗な地獄のような騒ぎとなりました。
ただ、燃え残った煙の臭いと、怒鳴り合う声、太刀や槍がぶつかり合う音だけが、恐ろしいほど激しく響き渡ります。
すでにどこかで斬り合いが始まっているようです。
星明かりを頼りに目を凝らしてみると、敵か味方か入り乱れてよく分かりませんが、白馬と黒鹿毛(くろかげ)の馬を駆っている七つの影は、間違いなく襲いかかってきた七人の勇士たちです。
彼らに斬り回されて、呂宋兵衛の手下たちは悲鳴を上げました。

「だめだ、足を斬られた!」
「敵は思ったよりずっと強いぞ。もう重傷者が出ている!」
「殿堂へ逃げろ!」
「人穴へ引き返せ!」

と口々に叫びながら、思い思いの草の細道へ、まるでクモの子を散らすように逃げ惑いました。
そんな雑兵や手下には目もくれず、先ほどから馬上を勇ましく駆け回っていた伊那丸は、
「咲耶子はいずこにおる? 咲耶子、咲耶子!」
と、しきりに呼び続けていました。

「おお、伊那丸さま、私はこちらにございます」
近づいてきた白鹿毛の馬の上には、きりりとした装束に身を包んだ彼女の姿がありました。細身の薙刀(なぎなた)を小脇に抱え、ニッコリと微笑んでいます。

「咲耶子、呂宋兵衛めはどこへ姿を隠したのだろう。忍剣も龍太郎も、いまだに討ち取ったという声が上がらぬが」
「私も、他の者には目もくれず八方を探し回りましたが、影も形も見当たりませぬ。残念ながら、どうやら取り逃がしてしまったようです」
「いや、民部が敷いた『八門の陣』がある。その逃げ道には伏兵を潜ませてあるゆえ、必ずや討ち漏らすことはあるまい」

二人が馬上でそう語り合っているすぐ背後で、突然、悪魔のような嘲笑が高く響き渡りました。
「わッはっは、わはっは……このバカものめ!」
「や!」

振り返ってみると、人の姿はなく、星空にそびえ立つ一基の十字架があるだけです。
「今の声は、間違いなく呂宋兵衛」
「気味の悪い笑い声だ。咲耶子、油断するなよ」

キッと十字架をにらみつけ、二人が息を殺したその瞬間でした。一陣の怪しい風が吹き抜けました。
すると、星祭りの壇に燃え残っていた赤いロウソクが、メラメラと青い炎を上げて音を立て、あたりを照らし出しました。
炎が明滅するその一瞬、十字架の後ろに隠れていたおぼろげな影が、間違いなく怪人・和田呂宋兵衛であることを二人は確認しました。

「おのれッ!」
「怨敵め!」

敵将の姿を目の当たりにして、ひるむはずがありません。

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