初級翻訳・神州天馬侠 第48話

吉川 英治

「ではまた、後刻あらためてお目にかかりましょう」

端厳、麒麟のごとき左少将・秀吉。風格、鳳凰のような右少将・家康。どちらも胸に大きな野心を抱いて、威風あたりを払い、安土城本丸の大広間を右と左とに分かれていきました。

二

「野武士のうちにも人物がいるぞ」

別室に移って、福島正則の手から密書を受け取った秀吉は、一読してすぐグルグルと無造作に巻きながら言いました。

「丹羽昌仙(にわしょうせん)というやつ、ちょっと使えるやつじゃ。したが、この手紙の要求などを入れることはまかりならん。ほっとけ、ほっとけ」

「信玄の孫、伊那丸とやらが、ふたたび甲斐源氏の旗揚げをいたす兆しが見えると、せっかくかれから申してまいったのに、そのままにしておいても大事にはございませぬか」

「市松、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことさらに援兵を出させて、北条、徳川などの領地を騒がせ、その機に乗じて己の野心をとげんとする。――秀吉にそんな暇はない。乳くさい伊那丸ごとき者に滅ぼされる者なら、滅んでしまえ」

「では、だれか一、二名をつかわして、呂宋兵衛の様子、また武田伊那丸の形勢などを探らせて見てはいかがでございましょうか」

「む、それはよいな。――だが、待てよ。家康の領内を越えていかなきゃならぬ。腹心の者はみな顔を知られているし、かといって凡庸な小者では何の役にも立つまい」

「それには、屈強な新参者がひとりござります」

「それはだれだ」

「可児才蔵(かにさいぞう)という豪傑でござる。わたくし自慢の家来、近ごろの掘り出し物と、ひそかに鼻を高くしておるほどの者でござりまする」

「む、山崎の合戦このかた、そちの幕下となった評判の才蔵か。おお、あれならよろしかろう」

正則は秀吉のまえを下がって、やがてこの旨を可児才蔵に含ませました。才蔵は新参者の身にすぎた光栄と勇み立ち、その夜、こっそりと鳥刺し稼業の男に変装しました。そして、もち竿を一本肩に担ぎ、安土の城を明け方に抜けて、富岳(富士)の国へ道を急ぎます――。

ずっと後年――関ヶ原の戦いに、剣頭に上げた首の数を知らず、斬っては笹の枝に刺し、斬っては笹に刺したところから「笹の才蔵」と一世に武名をうたわれた評判の男は、いよいよこれから、武田伊那丸の身辺に近づこうとする変装の鳥刺し、この可児才蔵であった。

剣道は卜伝の父・塚原土佐守の直弟子。相弟子の小太郎と同格といわれた腕を持ち、槍は天性得意とする可児才蔵が、それとは似もつかぬもち竿を担いで、頭巾に袖なしの鳥刺し姿。

「ピピピピッ、……ピョロッ、ピョロ、ピョロ……」

時は折しも鳥を呼ぶ笛を吹き、たまには雀の後を追いかけたりして、東海道の関所から関所へと巧みに切り抜けてくるうちに、これはどうだろう。かほど巧みに変装した彼を、もうひとりの男が、見えつ隠れつあとをつけて慕っていくのです。

ところが、世の中は油断がなりません。その男は途中からつけ出したのではなく、実は安土の城からずっとくっついてきているのです。同じ日に浜松から安土へきた家康の家臣、徳川四天王のひとり本多忠勝が、こっそりその男をつけさせたのでした。

――というのは、竹の子笠の燕作が、正則に密書を渡した様子を、休息所の窓から忠勝がじっくりと睨んでいたからに他なりません。「はてな?」と小首をかしげた忠勝は、主君・家康との面談を終えると、お供の中にいた菊池半助という者をひそかに呼びました。
そして何事かささやくと、半助はすぐさまどこかへ立ち去りました。
この菊池半助も、もとは伊賀の野武士でしたが、わけあって徳川家に見いだされ、いまでは忍術組の組頭をつとめています。
いわゆる徳川家の名物、伊賀者の元祖といえば、この菊池半助と、柘植半之丞、服部小源太の三羽烏。
そのひとりである半助が、忍術に長けているのは言うまでもなく、あらためて説明するまでもありません。
したがって、偽の鳥刺しである可児才蔵の後をつけ、その行き先や行動を見とどけるくらいの芸当は、彼にとっては朝飯前の仕事でした。

三

ピキ ピッピキ トッピキピ
おなかがへッて北山だ
芋でもほッて食うべえか
芋泥棒にゃなりたくない
鳶を捕ッて食うべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃ喰べかねる
そんなら雪でも食ッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ

だれだろう? いったい何者だろう? こんなでたらめで、へたくそな歌を、恥ずかしげもなく大声でどなっているのは。
この村には家が並んでいるものの、ほとんど人間は住んでいないはずです。
五湖や裾野、人穴といったいたるところで激しい斬り合いや流れ矢の飛び交う戦いがあったため、善良な村の人たちは「また大きな戦が始まるのか」と恐れ、例によって甲州の奥深くへ逃げ込んでしまったからです。
それゆえ、秋の穏やかな日和だというのに、鶏も鳴かず、餅をつく杵の音もせず、村はあわれなほど静まり返っています。
いま聞こえたへたくそな歌も、静寂のせいか、いっそう奇妙でとっぴな響きに聞こえます。

「やあ、こいつは、こいつはうまいものがあるぞ」

今度は地声でそう叫んで、人の気配のない村の軒先に立ったのは、竹童でした。
彼が目をクルクルと回し、よだれを垂らしながら見上げたのは、大きな柿の木です。
枝もたわわに、まだ青いものや、赤く色づき始めた猿柿が、あちこちにぶら下がっています。

「こっちの端にある赤いやつは、うまそうだなあ。
取っちゃあ悪いかな? いや、かまわないかな……?」

いつまでも立って考えています。
この姿を師匠の果心居士が見たら、どんなに呆れることでしょう。
口に葉っぱをくわえているところを見ると、さっき木の葉笛を吹きながら、変なでまかせを歌っていたのも、きっとこの竹童に違いありません。
いったいこの子は、師匠から言い付けられている大事な作戦など、とっくにどこかへ忘れてしまっているのではないでしょうか。第一、今日は肝心の、あの空を飛ぶ鷲にも乗っていません。

「いいや、いいや。
一つや二つくらい取ったってかまうもんか。
柿なんて、ひとりでに地面から生えてくるものだ。
これを取ったからといって、泥棒になんかなるもんか」

勝手な理屈をこねて、ぴょいと木に飛びつくと、その身のこなしは実に鮮やかです。
なにしろ、本場・鞍馬の山で鍛え上げた木登りの腕前。
するすると登って、一番赤い柿がなっている枝先に、鳥のように止まってしまいました。

「べっ、渋いな」

そう言って、口に入れた柿をぺっと下へ吐き捨てます。

「ありがたい――」

次のは甘かったようです。
もう口もききません。猿のようにカリカリと音を立てて頬張り、種だけを下に吐き出しています。

「甘いなあ。これで霜が一回降りれば、もっと甘くなるんだ。
おいらばかり食べているのはもったいない。お師匠さまにも一つ食べさせてあげたいな……」

食べることに夢中で、言葉もぶつぶつと寝言のように噛み潰しています。
この様子なら、まだ十や十五は食べられそうだという顔をしていたとき、どうしたことか竹童は、時々「チクリ、チクリ」と変に顔をしかめ始めました。

「あ痛!」

粘ついた手で頬っぺたを押さえました。

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