忍剣と小文治がなおも追いかけようとするのを、伊那丸はきっぱりと制止しました。逃げる八風斎の姿を一瞥もせず、伊那丸は言いました。
「小さな敵に気を取られるな。心もとない大軍の出動とやら、誰ぞ、早急に物見(偵察)をしてまいれ!」
「はっ、心得ました!」
応じた声は意外なほど優しく響きました。誰かと思えば、伊那丸のそばから蝶のように駆け出したのは、言うまでもなく咲耶子でした。見る間に物見の松の高みへとよじ登り、枝先にすがりながら片手をかざして叫びます。
「おお、見えます! 見えまする!」
「して、その敵のありどころは」
松の根元から仰ぎ見て、一同が答えを待ちます。上では、緑の黒髪を風になびかせながら、咲耶子が声を張り上げました。
「天子ヶ岳の麓から南の裾野にかけて、広々と陣取っているのが本陣と思われます。おお、しかもその旗印は、徳川方の譜代、天野、内藤、加賀爪、亀井、高力などの面々です!」
「なに、では呂宋兵衛が人穴城を出たのではなかったのか。して、軍兵の数は?」
「富士川のあたりには和田、樋之上の七、八百騎。大島峠にも三、四百余の旗指物が見えます。そのほか、津々美、白糸、門野のあたりにある兵を合わせると、およそ三千あまり!」
「その軍兵は、こちらへ向かって進んでくるのか?」
「いいえ、満を持して動かない様子ですが、敵の気迫は凄まじいものが見受けられます」
咲耶子の報告が終わると、物見の松の下では、伊那丸と軍師を中心にして悲壮な軍議が開かれました。前には人穴城の強敵が立ちふさがり、後ろには徳川家の大軍がいる。雨ヶ岳は今や完全に孤立無援の死地と化しました。
おそらくは、主従の軍議もこれが最後となるでしょう。軍議といっても、守れば死、攻めれば死。ただ、どのような最期を迎えるかの相談でした。時は黄昏か、宵か、夜中か、あるいは明け方か。いずれにせよ、闇の中でも花と散る身に変わりはありません。
「来い! 徳川勢――」
伊那丸一行は、馬には飼葉を、身には腹巻(鎧)をしっかりと引き締め、雨ヶ岳の陣々に静まり返りました。その頃、人穴城の望楼の上にも三つの人影が現れました。大将の呂宋兵衛に軍師の丹羽昌仙、そしてもう一人は客分の可児才蔵です。三人は暮れゆく陣地をいつまでも眺め渡し、何やら密談に余念がありません。心なしか、今宵は砦の上にひときわ冷たい殺気が満ちていました。
富士は暮れ、裾野も暮れていきます。今日で四日目の太陽がまさに沈もうとしているのに、小太郎山へ向かって駿馬・項羽を飛ばした木隠龍太郎は、一体どこで何をしているのでしょうか。彼は、雨ヶ岳に残した伊那丸の身や同志たちを忘れてしまうような男ではないはずです。いや、決してそんなことはないはずなのです。それなのに、晩秋の靄(もや)の中を低く飛ぶ鳥は見えても、駿馬・項羽にまたがった彼の姿がいつまで経っても現れないのは、どうしたわけでしょう。
人無村で命拾いをした後、白旗の森の奥へ潜り込んでしまった竹童も、もし本当に頭が切れるのであれば、今こそどこかで「今日だぞ、今日だぞ、さあ今日だぞ」と叫んでいなければならないはずです。師匠の果心居士から「今度こそやり損なったら大変だ」と秘命を授かっている竹童が、その一生に一度の大使命を果たすべき日は、まさに今日なのです。ところが、昨日あたりからあの蛾次郎が団子や焼き餅などを携えてちょくちょくと白旗の森に姿を見せ、竹童のご機嫌取りを始めたのも奇妙なことでした。
密林の出来事
一
雨のような落葉が、横ざまにバラバラと降り注ぎます。黒い葉、黄色い葉、真っ赤な葉が入り混じり、燦爛(さんらん)と果てしなく舞い散ります。広大な湖の水面も長い道も、このあたりでは見渡す限りの落葉の色に隠され、足の踏み場もわからないほどでした。その時、どこからか、
「ぐう、ぐう、ぐう……」
無防備で豪快ないびきの音が聞こえてきます。
疲れ切った旅人でも眠っているのでしょうか。白旗の宮(しらはたのみや)にある、蜘蛛の巣だらけの狐格子(きつねごうし)の隙間から、そのいびきは漏れ聞こえてくるのです。
もし旅人なら、夕陽の光がまだ雲の切れ間に残っている今のうちに、どこか人里まで急いでたどり着いてほしい――そう願わずにはいられません。
この土地は、冬になる前の時期から、口が耳まで裂けた恐ろしい狼が出没することで有名で、旅人を襲っては骨だけにしてしまうからです。
すると案の定、森の影からガサガサという異様な音が近づいてきました。
見てみると、幸いにも狼ではありませんでしたが、針金で補強した頭巾や小さな鎧で、まるで甲虫のように全身を固めた二人の兵士でした。
手には短い槍を携えています。
服装の目印からして、どうやら徳川家の斥候(せっこう=偵察兵)のようです。今日、天子ヶ岳(てんじがたけ)に着陣したばかりだというのに、早くもここまで偵察の手を回してくるとは、さすが「海道一」と恐れられる三河勢、その抜け目のない素早さは恐るべきものです。
甲虫のような格好をした斥候たちは、一歩一歩、周囲に神経を張り巡らせながら、落ち葉を踏む音さえ忍ばせて近づいてきましたが、
「しッ……」
と、先頭の男が、白旗の宮のそばで後ろの者に手で合図をしました。
「なんだ……」
もう一人が、同じく低い声で聞き返します。
「あやしい声がする」
「えッ」
「静かに」
二人はピタリと動きを止めると、槍を抱えたまま落ち葉のなかへ身を伏せました。
そして、しばらくの間、耳と目を研ぎ澄ませていましたが、それっきり、先ほどのいびきは聞こえなくなりました。甲虫たちは再び身を起こすと、どこへともなく立ち去っていきました。
あとは、またもの寂しい落ち葉の舞い。
暮れそうで暮れきらない、晩秋の哀愁が漂います。
ギイ……と不意に、白旗の宮の狐格子が内側から開きました。
そして、むっくりと姿を現したのは、なんと鞍馬山の竹童(ちくどう)でした。
「あぶない、あぶない。
もうこんなところまで、徳川家の陣笠(足軽)がうろついてきたぞ。
ところで、おいらは、いよいよ今夜お師匠さまの言いつけを実行するのだが、それにしては、もうそろそろどこかで鬨(とき)の声が上がってきそうなもの……どれ、ひとつ高い所から陣の様子を眺めてやろうか」
ひらりと宮の縁から飛び降りるやいなや、竹童は湖畔にそびえる樅(もみ)の大樹へ、するするするとリスのように木登りを始めました。これは竹童にしかできない芸当です。
数丈(すうじょう)上のてっぺんに、カラスのように止まった竹童は、したり顔で周囲の形勢をしっかりと見届けると、再び降りてきました。今度は、白旗の宮の拝殿に隠しておいた一束の松明(たいまつ)を担ぎ出しました。
この松明こそは、竹童が苦心惨憺(くしんさんたん)して、蛾次郎(がじろう)から手に入れたものです。
彼はこの二十本の松明を何に使うつもりなのか、腰に皮の火打石袋をぶら下げて、一目散に白旗の森の奥へと走り込んでいきました。
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