初級翻訳・神州天馬侠 第61話

吉川 英治

 たちまち、進軍の合図が響きます。民部の手から振られた采配が空を切り、風を切る音とともに、陣は五つの段に分かれました。雁が列をなして飛ぶような形となり、闇に包まれた野原から、人穴城の正面へと、脇目もふらずに攻めかかりました。

「わーッ! わーッ!」
 突然、鬨(とき)の声が上がります。
「かかれ、かかれ! 命を捨てる覚悟で行け!」
 今こそ花の散りどきと、伊那丸は鐙(あぶみ)を力いっぱい踏ん張り、鞍を叩いて叫びながら、自らも先陣を切って刀を抜き、城門近くへと馬を走らせました。
 それを見て、控えていた旗本たちも燃え上がります。
「それ、若君に一番乗りを奪われてなるものか!」
「大将より先に死ねなかったとあっては、武士の恥、天下の笑いものだ!」
「死ぬなら今だ、死ぬなら今だぞ、友よ!」
「おお、ともに死のうぞ!」
 互いに死を覚悟の冠(かんむり)をいただき、えいや、えいやと駆け続けます。忍剣、民部、蔦之助、そして女ながらも咲耶子までもが、筋金の入った鉢巻を締め、鎖帷子を肌にまとい、手ごろな薙刀を小脇に抱えていました。父である根来小角の敵を、せめて一太刀なりと討ちたいという一心で、猛者たちのなかへ混じっていく姿は、勇ましくもあり、また涙を誘うほど健気でした。
 ただ、今夜の戦いにおいて唯一の心残りは、ここになくてはならない木隠龍太郎の姿が見えないことでした。
 大将の伊那丸から、末端の雑兵に至るまで、皆が死を覚悟して臨むこの戦いに、あの大切な彼がいないことは、返す返すも残念でなりません。
 ああ龍太郎、彼はついに伊那丸の未来に見切りをつけ、主君を捨て、友を捨てて去ってしまったのだろうか。
 ――もしそうだとすれば、龍太郎もまた、武士としては風上に置けない人物だと言わねばなりません。

二

「いよいよ攻めてまいりましたぞ」
「なに、大したことはない。主従合わせても、せいぜい八十人か九十人の小勢だ」
「小勢ですが、本格的な陣の構えをとって大手門へかかってきた様子は、いよいよ決死の意気込み。うっかりすると手を焼きますぞ」
「おう、そう言えば、天を突くような鬨の声だ」
「伊那丸は、たしかに命を捨ててかかってきたようだな……」
 真っ暗な空の上で、そんな会話が交わされていました。そこは人穴城の望楼の上です。高い闇のなかでじっと立っているのは、呂宋兵衛と可児才蔵でした。
 呂宋兵衛は、今しがた軍師の昌仙と物頭の轟又八が万全の配備を整えた様子を見ていたので、すっかり油断し、安心しきった態度でした。
 しかし、可児才蔵は違いました。
「待てよ、こいつは見くびってはいけない……」
 日没から伊那丸の陣地を見渡していましたが、小勢ながらも、守る姿は林のように整い、攻める姿は疾風のようでした。才蔵は心の中で、ひそかに舌を巻きました。
「世の者たちは今、豊臣、徳川、北条、柴田といった勢力がひしめいていることを知っていて、武田菱の旗印などとっくの昔に忘れている。いや、自分自身もそう思っていたが――これは大きな見当違いだ。あの麒麟児(伊那丸)が、一朝の風雲に乗じて翼を得ようものなら、それこそ信玄の再来となるだろう。天下の行方はどうなるか分からない。下手をすれば、主君の秀吉公の未来に、恐ろしいつまずきをもたらすかもしれない――これは、ぐずぐずしている場合ではない。少しでも早く安土城へ帰って、この由を報告するのが自分の役目だ。もとより秀吉公は、呂宋兵衛にはそれほど重きを置いていない。そうだ、この勝敗を見届けたら、すぐにでも安土へ戻ろう」
 才蔵は心に決めましたが、顔には出さず、大手門の形勢を観望しています。
 そこでは、たちまち矢が飛び交い、吶喊(とっかん)の声が上がり、大木や大石を投げ落とす音がものすごく響き渡り始めました。
 モウモウと硝煙のにおいがする煙が、絶え間なく放たれる鉄砲の音とともに、櫓の上まで巻き上がってきます。
 ちょうどその時、望楼の上へ駆け上がってきたのは、轟又八でした。黒皮の胴に大太刀を横たえ、いかにも物々しい出で立ちです。
「お頭領、申し上げます!」
「どうした、戦の模様は?」
「城兵は、一の門、二の門とも固く守っており、破られる心配はありません。ですが敵もまた、伊那丸を先頭に一歩も引かず、小幡民部のかけ引きも自在で、勝負は長引きそうです。これは丹羽昌仙の例の臆病な性格からくるもの。なにとぞ、この又八に、城外へ打って出ることをお許しいただきたい!」
「む、では汝は城門を押し開いて、一気に寄手を蹴散らそうというのか」
「たかが知れた小人数、必ずこの又八が、一匹残らずひっ捕らえて、呂宋兵衛さまのおん前に並べてごらんに入れます!」
「昌仙の堅い守りも悪くはないが、なるほど、それでは決着がつかんだろう。許す、又八、打って出ろ!」
「はっ、御免!」
 そう会釈をして、又八はドタドタと望楼を駆け下りていきました。可児才蔵はそれを見て、
「ああ、いけない」と心の中でつぶやきました。
軍師の命令が守られず、あちらこちらから別々の指示が出て、お互いに手柄を焦るなど、戦において最もやってはならない禁じ手だからです。

大手門へと引き返した又八は、すぐさま城兵の中でも選りすぐりの猛者たち――久能見の藤次、岩田郷祐範、浪切右源太、鬼面突骨斎、荒木田五兵衛、さらには穴山の残党である足助主水正、佐分利五郎次などを先頭に立て、四、五百人の兵を勢ぞろいさせて攻め出しました。
軍師の昌仙がそれを見て驚き、怒るのも構わず、又八は呂宋兵衛の言葉を盾にして、
「それッ!」
と、城門を大きく開け放ちました。

「わーッ!」
と、たちまち寄手の兵と正面からぶつかり、人間同士の怒りが波のように激しくぶつかり合いました。
お互いに一歩も引かず、引かせず、もみ合いながら、激しい太刀の打ち合いが続きます。
それがおよそ半刻(約一時間)ほど続きました。
しかし、時間の経過とともに、次から次へと押し寄せてくる城兵の勢いに圧倒され、伊那丸たちはついに二、三町(約200〜300メートル)ほど押し戻されてしまいました。

「それ、この好機を逃すな!」
と、自ら八角形の鉄棒を力強く振り回して先頭に立った又八は、
「追いつぶせ、追いつぶせ! どこまでも追いかけて、伊那丸の一味を皆殺しにしてしまえ!」
と、千鳥を追い立てる大波のように、逃げる勢いに乗じて、とうとう裾野の平地まで攻め出しました。

三

時分はよしと判断した小幡民部が、にわかに足を止めました。
突然、采配をちぎれんばかりに激しく振り、
「止まれッ!」
と叫びました。
バラバラに逃げていた兵たちは、その合図でぴたりと踵を返し、稲の束に降りた雀のように、素早く槍を構えて身を伏せました。

「かかれッ! 轟又八を逃がすな!」
「おうッ!」
たちまち「胡蝶の陣」が展開されます。
駆け寄ってくる敵の足元を払い、四方八方から薙ぎ倒していきます。
中でも目覚ましい働きを見せたのは、山県蔦之助と巽小文治でした。
見る間に鬼面突骨斎、浪切右源太を乱戦の中で倒し、縦横無尽に暴れ回りました。

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