初級翻訳・神州天馬侠 第62話

吉川 英治

「さては、またしても民部の策にのせられたか!」
と、又八は顔色を失い、慌てて道を引き返そうとしましたが、なんとそこにはすでに逃げ道を断つように、別の軍勢が立ちはだかっていました。
その中からひときわ高い声が響きます。
「武田伊那丸、これにあり! 又八、覚悟!」
「めずらしいぞ轟! 小角の娘、咲耶子だ!」
「われこそは加賀見忍剣、いざ、首を頂戴する!」
その叫び声は、耳をつんざくほどでした。
轟又八は、思わず身の毛がよだつ思いをしました。
腹心の剛力である荒木田五兵衛が、忍剣に飛びかかりましたが、一太刀で討ち取られてしまいました。
手下の野武士の数は敵の三倍、四倍もありましたが、こうして浮き足だってしまっては、どうすることもできません。
又八はヤケクソ気味に目を怒らせて、
「おう、山寨第一の強者、轟又八の鉄棒を食らってみろ!」
と、忍剣の禅杖に渡り合いました。
龍がうそぶき虎が吠えるような激しさで、しばらくの間、誰も割り込めないほどの火花を散らす秘術の応酬が続きましたが、隙を見た伊那丸が駆け寄り、陣刀を一閃させて又八の片腕をサッと切り落としました。
「うーむ!」
とよろめいたところを、咲耶子の薙刀がみごとに足を払い、又八を地面に叩きつけました。

又八が討たれたのを見て、もはや踏みとどまる敵は一人もおらず、道も選ばずに闇の中をわれ先にと人穴城へ逃げ戻っていきました。
その時、はるか南の裾野の方から、ぼう――ぼう――と法螺貝の音が響き、陣鐘が鳴り渡りました。
見渡せば、いつのまにやら徳川の三千の軍兵が、裾野の半円を遠巻きにして、燃え盛る松明を連ね、本格的な陣法を崩さずに、一鼓六足の勢いで鶴翼の陣を敷き、じりじりと距離を詰めてきている様子でした。
また、人穴城では、今の敗北に怒った呂宋兵衛が今度は自ら望楼を降り、さらに精鋭の野武士千人を率いて嵐のように殺到してきました。

ヒュッ! ヒュッ!
と、闇を切り裂いて飛んでくる矢の音から見ても、徳川勢の先手である亀井武蔵守、内藤清成、加賀爪甲斐守の軍兵は、すぐそこまで押し寄せているようでした。その証拠に、伊那丸が陣を敷いていた雨ヶ岳の頂から、噴火口のような火の手が上がりました。
三河勢が火を放ったのです。
その火明かりで、梵天台を埋め尽くすほどの敵兵が見えました。
近くの川を渡ってくる軍馬の姿も見え始めました。
裾野は夕焼けのように真っ赤に染まりました。

「若君、いよいよご最期の時とおぼしめせ」
小幡民部が天を仰いでそう言うと、
「覚悟はいたしておる。」「わしはうれしい、わしはうれしい!」
「おお、おうれしいとおっしゃいますか」
「野武士くずれの呂宋兵衛を相手に戦って死ぬより、たった一太刀でも、甲斐源氏の怨敵である徳川家の旗印の中へ切り込んで死ぬことこそ本望。うれしくなくてどうするというのだ」
「けなげなお言葉。われらも、斬って斬って斬りまくりましょう」
 忍剣もそう言って意気込みましたが、ふとかえりみれば、前後を強敵に囲まれながら、伊那丸のまわりに残った人数は、わずかに四十五、六人となっていました。

幽霊軍隊

一

 竹童に頼まれて、人穴城付近の偵察に出かけた蛾次郎は、どうやら戦いが始まってしまった様子なので、草むらをガサガサとかきわけて戻ってくると、ある小道で、向こうから来るひとりの男の影を見つけました。
「あ、あいつは雨ヶ岳の方から来たらしい。あいつに聞けば、伊那丸たちの詳しい様子がわかるだろう……」
 道端に腰かけて、先から来るのを待っていました。
ビタ、ビタ、ビタ……と足音が近づいてきましたが、星明かり程度では、それが百姓なのか侍なのか判別がつきません。しかし蛾次郎は、ひょいと前へ立ちあらわれて、
「もし、ちょっとうかがいます」
 と、頭を下げました。
おおかた驚いたのでしょう、相手はしばらく黙って、蛾次郎の姿を見すかしています。
「もしやあなたは、雨ヶ岳の方からやってきたのではありませんか」
「ああ、そうだよ」
「あそこに陣取っている、武田伊那丸の兵は、もう山を下りましたでしょうか。戦いはまだ始まっていないのでしょうか?」
「知らないよ。そんなことは。おまえはいったい何者だ」
「おれかい? おれはさ、もと鼻かけ卜斎という鏃(やじり)鍛冶のところにいた、人無村の蛾次郎という者だが、どうも卜斎という師匠がやかましい奴で気に入らないから、そこを飛び出して、いまではあるところの大大名のお抱えさまだ」
「バカッ!」
「あ痛っ! こんちくしょう、な、なんでおれを殴りやがるんだ!」
「蛾次郎、いつ貴様に暇をやった」
「ええーっ!」
「いつ、この卜斎が、暇を出すと申したか」
「あ、いけねえ!」
 蛾次郎がくるくると舞いをして逃げ出したのも道理です。それは、雨ヶ岳から降りてきた当の卜斎、すなわち上部八風斎その人だったのです。
「野郎!」
 八風斎はバラバラッと追いかけて蛾次郎の襟首をひっつかむと、足早に人無村の細工小屋へ引き戻しました。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「えい、やかましいわい!」
「あ痛え、もう、もう決して飛び出しません! 親方、これから気をつけます。か、勘弁してください……」
 蛾次郎はわんわんと手放しで泣き出しました。もっとも、蛾次郎の泣き虫なのは今に始まったことではないので、その泣き声もたいして改心の意味をなすものではありません。
「バカ野郎、てめえに説教などをしている暇はない。今回だけは勘弁してやるから、これを背負って早く歩け!」
 と、今夜はあの八風斎(鼻かけ卜斎)も、家に戻って落ち着く様子もなく、書斎をかき回して大事な書類だけを一包みにからげ、それを蛾次郎に背負わせて、夜逃げのように立ちのいてしまいました。
門を出ると、さっきまで泣いていた蛾次郎は、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物を背負って、これから一体どこへ出かけるんですえ?」
 と聞き出しました。
「戦ばかりで、この人無村では仕事ができないから、越前北ノ庄へ立ち帰るのだ」
「え、越前へ?」
 蛾次郎は驚きました。
(いやだなあ)と口には出しませんが、腹の中では渋々です。せっかく菊池半助が徳川家で出世の道を探してくれたのに、越前なんて雪国へ行くなんてなんとつまらないことだと、また泣き出したくなりました。
ちょうど、夜逃げの二人が人無村のはずれまで来た時――八風斎がふいにピタリと足を止めて、
「はてな? ……」
 と、耳をそばだてました。
「な、なんですか親方」
「黙っていろ……」
 しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇の中から、とう、とう、とう――と地を響かせてくる軍馬の蹄の音、おびただしい人の足音、行軍の法螺貝の音が聞こえてきました。あっと思う間に、三、四百人の蛇形陣が、嵐のごとくまっしぐらにこちらへ向かってくるのが見えだしたのです。
八風斎はギョッとして叫びました。

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