「蛾次郎、蛾次郎、姿を隠せ! 早く隠れろ!」
「え、え、え、なんです、親方!」
「バカ! ぐずぐずするな、見つかっては一大事だ! 早くそこらへ姿を消せ!」
「ど、どこへ消えるんです?」
と、不意の出来事に蛾次郎は度を失い、まだうろうろしているので、八風斎は「えい、面倒だ!」とばかりに、彼を物陰に突き飛ばすと、自分は素早くかたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまいました。ふたりが、かろうじて姿を隠したか隠さないかのうちに、八風斎の目の下へ、潮が押し寄せるような勢いで、蛇のような隊列を組んだ軍勢が差し掛かってきました。その人数は、なんと四百人余り。
みな一様に陣笠をかぶり、軽装の鎧を身にまとい、手槍や抜き身の刀をひっさげて、すでに戦いの埃を浴びているような、ものものしい様子です。
その中にひときわ目立つひとりの武将がいました。漆黒の馬にまたがり、鎧はまとわず、兜もかぶらず、白の小袖姿で、白鞘の一刀を腰に差したまま、馬の腹を鞭で叩いて、急ぎに急いでいます。
「あ、あの人は見たことがあるぞ」
物陰にいた蛾次郎は、目を大きく見開いて、その馬上を見送りましたが、ふと何かに気がつくと、
「そうだ、そうだ」とばかりに、あとから続く軍勢の中にうまく紛れ込み、八風斎の目をくらまして、越前へ向かう道中から、元の裾野(すその)へと逃げ戻ってしまったのです。
「おお、あの矢叫びを聞け! 火の手も見えるぞ! 流れ矢も飛んでくる。この一時は一生の大事だ、息をつかずに急げ、急げ!」
人無村を駆け抜けて、広々とした裾野の原っぱに入ると、黒馬に乗った武将は、鞍の上から声をからして兵たちを励ましました。
雨ヶ岳の火は、まだ赤々と燃え盛っています。
「敵だ!」
「敵がいるぞッ!」
「討て!」
と、突然、先頭の者から叫び声が上がりました。
四、五間(約八〜九メートル)ほどの小石の河原で、思いがけず徳川家の先鋒である内藤清成の別働隊、四、五十人と衝突したのです。
暗闇の中の戦いでした。ただものすごい太刀の音や、槍が折れる音、人のうめき声が聞こえるだけで、敵も味方も見分けがつかないほどでしたが、勝負は一瞬で決まったようです。先頭の蛇形の陣列は、再び一糸乱れぬ様子で、しかも足並みをいっそう速めて、人穴城の山下へと向かいました。
「おーい! おーい!」
駆けながら、馬上の武将は誰かを呼び求めています。
それに続いて、陣笠をかぶった兵たちも、代わる代わる声をからして、おーい、おーいと、津波のような鬨(とき)の声を張り上げました。
二
地から湧き出たように、突然、人無村を突き抜けて駆けつけてきたこの軍勢は、一体どこの国、どの大名に従うものなのでしょうか。はっきりとした旗印もなく、誰が指揮官なのかも分かりません。
不思議といえば、実に不思議な軍勢です。
海に「船幽霊」がいるように、広野の古戦場にも、時として武者の幽霊の幻が現れるといいます。夜通し野原を駆け巡り、草木もまるで魂があるかのように、鬼が泣き叫ぶような音を立てて揺れ、馬の蹄の音を響かせて、里人の夢を驚かせることがあるという古文書の記述があります。
それではないか?
この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか。いかにも、幻の魔軍のように、天狗のように迅速な足取りです。
「おーい! おーい!」
魔軍はまた、潮のように呼びかけています。
ちょうどその時――
ほど遠くない場所で、亀井武蔵守(かめいむさしのかみ)率いる、精悍な三河武士二、三百人に取り囲まれていた武田伊那丸の矢叫びを聞きつけるやいなや、魔軍は突然、三段に備えを分けると、わっとばかりに斬り込みました。
その時、矢来(やらい)の向こうから声が上がり、伊那丸をはじめ、苦境に立たされていた味方を「夢ではないか?」と思わせたのです。
「やあ、やあ! 若君はご無事でおわすか! そのほかの皆々様も聞きなさい。先日、小太郎山へ向かった木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)、ただいまここへ帰還した! 龍太郎、帰還したぞ!」
「わあーッ!」
と、地軸を揺るがすような歓喜の声。
「わあーッ!」
と、再び乱軍の中で熱狂が湧き上がります。
しばしの間、歓声は鳴りやまず、三河勢はその勢いと、新手の精鋭たちの前に、さんざんに打ち負かされて敗走しました。
木隠龍太郎は、やはり愛すべき武士でした。
彼はついに、主君の危機に間に合ったのです。
それにしても、彼はどうやって小太郎山から四百もの兵を連れてきたのでしょうか。
それは、彼に従う兵士たちの姿を見れば分かりました。
陣笠も鎧も、昼の光で見れば、一夜漬けで作った紙細工のようなものです。兵たちはみな、小太郎山の砦の工事で働いていた石切り職人や、鍛冶屋、大工、そして山を崩す土工たちだったのです。
武器だけは、砦を築く前にひそかに蓄えてあったので、不足はありませんでした。
この計算があったからこそ、龍太郎は四日間で四百人の兵をそろえることができたのです。
そして、その機転が、思いがけず大きな功を奏しました。
しかし、一同はほっとする間もありませんでした。
一度は兵を退いた亀井武蔵守は、再び内藤清成の兵と合流して、堂々と再戦を挑んできたのです。
それだけでなく、人穴城を発した呂宋兵衛(るそんひょうえ)も、すぐ六、七町(約六、七百メートル)先まで野武士の軍勢を繰り出し、四、五百挺もの鉄砲を並べて、いざとなれば一斉に撃ち放とうと構えているのでした。
三
鼻かけ卜斎の越前行きに途中まで引っ張られていった蛾次郎が、木隠龍太郎の行軍の中に紛れ込んでまんまと逃げ出したのは、おそらく蛾次郎の近年の大金星だったでしょう。
彼はまた、その列の中から適当なところで抜け出すと、すたこらと「白旗の森」の奥へと駆けつけていったのです。見ると、そこには焚き火が燃えており、鷲も放たれているものの、竹童の姿は見当たりません。
蛾次郎は、「しめた!」と思いました。
「今だ、今だ。菊池半助に頼まれているこの鷲を盗んで、徳川家の陣中へ逃げ出すなら今しかない!」と、彼は手を叩いて大喜びしました。
「これが天の与えというやつだ。あんなに苦労して、おまけに竹童みたいなチビ助におべっかを使ったり、使い走りをしてやったりしたんだから、これくらいのご褒美がなきゃ割に合わないぜ。さあ、クロ、お前は今日からオレのものだぞ!」
蛾次郎はすっかり有頂天になり、するりと柔らかい鷲の背中にまたがりました。
蛾次郎は先日、竹童と一緒にこれへ乗って空へ舞い上がった経験もありますし、この数日間にわたって腹に一物(いちもつ)あった彼は、鷲にご機嫌取りとしてウサギの肉や小鳥を与えていたため、鷲にもかなり慣れていました。
竹童の真似をして、かるく翼を叩き、あわやそのまま乗って逃げ出そうとしたその瞬間でした。頭の上から、
「やいっ!」
と、木の上からするすると下りてきた竹童が、
「何をするんだっ!」
と、いきなり鷲の上の蛾次郎を、二、三間(ま)先へと突き飛ばしました。
不意を突かれて尻餅をついた蛾次郎は、痛そうな顔を悪びれもせずにしかめながら、こう言いました。
「何を怒るんだよ。
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