「いまでもその歌を歌うのかい?」
「うん、おじさんも知っているの?」
「おじさんも子どものころ、そうやってひよめをからかったものさ」
「おじさんも小さいとき、よくこの道を通ったの?」
「うん、町の中学校へ通ったもんさ」
「おじさん、また帰ってくる?」
「うん……どうかな、わからん」
道がふたつに分かれているところへ来ました。
「坊やはどっちへ行くんだ?」
「こっち」
「そうか、じゃあ、さよなら」
「さよなら」
少年はひとりになると、自分のポケットに手を突っ込んで、ぴょこんぴょこんと跳ねながら行きました。
「坊や……ちょっと待てよ」
遠くから男の人が呼びました。少年はけろりとして立ち止まり、そっちを見ましたが、男の人がしきりに手を振っているので、また戻っていきました。
「ちょっとね、坊や」
男の人は、少年がそばに来ると、少し決まりの悪そうな顔をして言いました。
「実はな、坊や。おじさんはゆうべ、その薬屋の家で泊めてもらったのさ。ところが今朝出るとき、あわてたもんだから、間違えて薬屋の時計を持ってきてしまったんだ」
「…………」
「坊や、すまんけど、この時計とそれから、こいつも(と言って、外套の内ポケットから小さい懐中時計を引っ張り出して)間違えて持ってきちまったから、薬屋に返してくれないか。な、いいだろう?」
「うん」
少年はうた時計と懐中時計を、両手に受け取りました。
「じゃあ、薬屋のおじさんによろしく言ってくれよ。さよなら」
「さよなら」
「坊や、名前は何て言ったっけ」
「清廉潔白の廉だよ」
「うん、それだ。坊やは、その清廉……何だっけな」
「潔白だよ」
「うん、潔白。それでなくちゃいかんぞ。そういう立派な正直な大人になれよ。じゃあ、本当にさよなら」
「さよなら」
少年は両手に時計を持ったまま、男の人を見送っていました。男の人はだんだん小さくなり、やがて稲積(いなずみ)の向こうに見えなくなってしまいました。少年はてくてくと歩き出しました。歩きながら、なにか腑に落ちないことがあるように、ちょっと首をかしげました。
まもなく少年の後ろから自転車が一台、追っかけてきました。
「あッ、薬屋のおじさん」
「おう、廉坊、おまえか」
襟巻きであごをうずめた年寄りのおじさんは、自転車から降りました。そしてしばらくの間、咳(せき)のせいで何も言えませんでした。その咳は、冬の夜、枯れ木の梢を鳴らす風の音のように、ヒュウヒュウと鳴りました。「廉坊、おまえは村から、ここまで来たのかい」
「うん」
「それじゃあ、いましがた、村から誰か男の人が出てくるのと、一緒にならなかったかい?」
「一緒だったよ」
「あッ、そ、その時計、おまえはどうして……」
老人は、少年が手に持っているうた時計と懐中時計に目をとめて言いました。
「その人がね、おじさんの家で間違えて持ってきたから、返してくれって言ったんだよ」
「返してくれって?」
「うん」
「そうか、あの馬鹿めが」
「あれ、誰なの、おじさん」
「あれか」
そう言って老人は、また長く咳き込みました。
「あれは、うちの周作だよ」
「えっ、ほんと?」
「昨日、十何年ぶりで、うちへ戻ってきたんだ。長いあいだ悪いことばかりしてきたけれど、今度こそ改心して、まじめに町の工場で働くことにしたから、と言ってきたので、ひと晩泊めてやったのさ。そしたら今朝、わしが知らないあいだに、もう悪い手癖を出して、このふたつの時計をくすねて出かけやがった。あのごくつぶしめが」
「おじさん、それでもね、間違えて持ってきたんだってよ。ほんとにとっていくつもりじゃなかったんだよ。ぼくにね、人間は清廉潔白でなくちゃいけないって言ってたよ」
「そうかい……そんなことを言っていったのか」
少年は老人の手に、ふたつの時計を渡しました。
受け取るとき、老人の手は震えて、うた時計のねじに触れました。
すると時計は、また美しくうたいだしました。
老人と少年と、立てかけた自転車が、広い枯れ野の上にかげを落として、しばらく美しい音楽に聞き入りました。
老人は目に涙を浮かべました。
少年は老人から目をそらして、さっき男の人が隠れていった、遠くの稲積の方を眺めていました。
野の果てに、白い雲がひとつ浮かんでいました。
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