そしてパットはベルトに小袋を装着し、その中に暗黒側で出会う無害で小さい動植物の標本を入れる予定だ。2人はマスク越しにお互いに微苦笑。ハムは、太ったようだなと意地悪を言って、パットが嫌がるのを楽しんでいる。パットが背を向け、扉を開け、外へ踏み出した。舷窓から見るのと違った。舷窓からは現実味がなく、全てが無音の静止画であったが、いまや周りに現実があり、冷たい息遣いと、陰気な下層風の音によって、現実であることが確実に分った。しばらく2人はロケット舷窓から伸びる光の輪に立ちすくみ、畏怖の念に打たれ、じっと眺める水平線には、信じられないような大永劫山の頂が、偽りの日没の中に黒々とそびえている。近づくにつれ、光が届く範囲は太陽も月も星もなく、不気味な荒れ地の平原であり、そこには山頂、尖塔、突端、氷稜、岩石が、えもいわれぬ幻想的な姿で屹立し、表面は荒々しい下層風の力によって刻まれている。ハムが肉付きの良い腕をパットにまわすと、驚いたことにパットは震えていた。寒いのかと訊き、腕の温度計目盛りをちらと見て、
「たったの-38℃じゃないか」
「寒くない。景色のせいよ。この場所が暖かいのはなぜかしら」太陽光がないのに、そう思うでしょう」
とパットが言って離れた。
ハムが口をはさんだ。
「きみは間違っている。
技術者ならガスが拡散することぐらい知っている。
上層風がちょうど頭上の8~9を吹いており、当然薄暮地帯の砂漠熱風を大量に運んでくる。
暖かい空気も少しは冷たいところへ拡散するし、その結果冷えれば沈む。
そのうえ、等高線が大いに関係している」
ハムが一息入れて、思慮深く言葉を継いだ。
「そうだなあ、永劫山近くでこんな場所を見つけても驚かないさ。
下降気流があって、上層風が斜面にそって吹き下ろせば、こんな場所でもまあ我慢できる気候になるよ」
ハムはパットのあとをついて回り、パットはロケットから漏れる光輪の端あたりを探索した。
パットが叫んだ。
「まあ、ハム、あった。
暗黒側の植物標本が」
パットは灰色の丸っこい塊にかがみこんだ。
「地衣類か真菌類ね。
もちろん葉っぱがない。
葉っぱは太陽があってこそ役に立つ。
同じ理由で葉緑素もない。
とても原始的で単純な植物だが、ある意味では全然単純じゃない。
見て、ハム、高度に発達した血管がある」
ハムが上体を曲げてぐっと近づくと、舷窓の淡い黄色光に照らされて、パットの示す先に細かい網目状の血管が見えた。
即座にパットが厚ぼったい塊に温度計を突き刺して、しばらくそのまま持って、まじまじ見た。
「一種の心臓かしら。
ほれ、見て、ハム、温度計の針が動いている、あったかいのよ、温血植物だ。
考えてみれば当然ね。
永久凍結温度域で生存できる植物だもの。
生命は液体で生きるはずよ」
パットが植物を引き抜くと、ブスッと音がして、ちぎれた根っこから黒い液体が滴り落ちた。
ああっ、とハムが絶叫して、
「むかつく植物だなあ。
血を流す曼陀羅華か? 唯一、引き抜くと叫び声を出すといわれているが」
ハムは黙った。
脈打ちながら叫び、すすり泣くような低い声が、ぶるぶる震える茎の髄から出ており、ハムはパットに驚きの目を向けて、またうめいた。
「うわあ、むかつくぜ」
「むかつくですって? どうして、美しい植物よ。
完全に環境に適応している」
「うーん、技術屋でよかったよ。
行こうぜ、まわりを探そう」
とハムがうめきながらパットを見ていると、パットがロケットの扉を開けて、真四角なゴムの上に、植物を置いた。
パットは扉を閉め、ハムのあとを追い、ロケットを離れた。
たちまち暗闇が黒い霧のように2人を包み、明かりのついた舷窓をちらと振り返るだけで、自分たちが現実の世界にいることを確信した。
「ヘルメットのランプをつけようか、パット。
その方がいいと思うよ。
さもないと転ぶ」
2人がいくらも行かないうちに、下層風のうなり音に混じって聞こえたのは、この世と思われないような荒々しく恐ろしげな甲高い笑い声、地獄でホーホーと遠吠えして含み笑いするような陰気な雑音だった。
「トライオップスだ」
とつぶやくパットは複数形も文法も上の空。
パットは怖がっている。
平常はハムと同じぐらい勇敢か、むしろ向こう見ずで無砲なところがあるが、あんな不気味な金切り声を聞けば、永劫山の峡谷で遭遇した苦悶を一瞬思い出す。
パットはひどく怖がり、取り乱し、慌てて、ライトのスイッチと拳銃をまさぐった。
2人のまわりで石が6個ばかり銃弾のようにヒュンとうなった。
そして1個がハムの腕に激しく当たったので、ライトをつけた。
4個のビームが長く伸び、尾根を照らすと、野獣の笑い声は極限の苦痛をあげた。
ちらり見えた影法師のような姿が尾根や尖塔から飛び出し、亡霊のようにひらひら舞いながら暗闇に消え、静かになった。
「おお、怖い、ハム」
とパットがつぶやき、ハムに身をよせ、今度はきっぱり、
「でもこれが証拠ね。
トライオップス・ノックタバイバンズは現実に夜側の生物よ。
山中の奴らは前線部隊か、はぐれもので、暗闇の亀裂をさ迷っている」
はるか向こうでホーホーと笑う声がする。
ハムが考え込んだ。
「奴らの雑音のような声は一種の言語かもしれんな」
「きっとそう。
つまり熱帯原住民は知的だから、これらの生き物も関連種族よ。
しかも石を投げたり、麻酔胞子の利用方法を知っている。
峡谷で使った。
ところであれは夜側植物の実に違いない。
3つ目怪人は間違いなく知的で、兇暴で、残忍で、未開な部族ね。
でも近づけないから、人類は今まで頭脳や言語を研究したことはないと思う」
ハムがそうだと同意するもっともな理由は、石が1個突然ビュンと飛んできて、氷の塔が欠け、きらきら光る破片が5~6歩の所に落ちたときだ。
ハムが頭を回してヘルメットランプの光を平原に投射すると、暗闇から一声高笑いが聞こえた。
「ありがたい、光のおかげではいってこれない」
とハムがつぶやいた。「陛下の思し召しじゃないかな。神よ、陛下を救い給え、慈悲多きならんことを」
(原文注):2人は英国領のビノーブル地域にいる。2020年ライルで開催された国際会議で暗黒側の権利を配分した。それによれば各国は自国金星領域の薄暮地帯から、仲秋時の太陽位置に真逆する地点まで、領域を与えられた。
でもパットは再び標本採取に専念した。いま自分のランプをつけている。異様な平原、奇妙な造形物の間を機敏に動いている。ハムがあとをついて眺めていると、パットは血を流しすすり泣く植物を引き抜いている。1ダースばかり変種を集めた。そのなかの1種、小さなくねくねする煙草の形をした生き物を困惑げにじっと眺め、植物か動物か、どっちでもないか、ほとほと決めかねている。
そしてついに採取袋がいっぱいになり、戻る平原の先にロケットの舷窓がぼんやり光る様は、眼が1列になって見つめているようだった。
しかし衝撃が待っていたのは扉を開けて中に入った時だ。2人とも思わず後ずさり、生暖かくてむっとする不快で息もできない空気がワッと噴き出し、顔面に腐った臭いが降りかかった。
何だ、とハムがうめいて、くすくす笑った。
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