岬の山のてっぺんがかすかに揺れ動いているような様子は、外海の波の荒さを思わせ、少し不安にもなった。
途中で自転車から降りなければならなくなるかもしれないからだ。
そうなると、自転車ほど邪魔なものはない。
しかし、だからといって今さら引き返すわけにはいかないのだと考えながら、いつの間にか、先生の空想は羽のある鳥のように自由に飛び回っていた。
……風よ凪げ! まるでアリババのように私が命令を下すと、風はたちまち力を弱め、海は嘘のように静まりかえる。まるで、いま眠りからさめたばかりの湖のような静かさです。
橋よかかれ! さっとわたしが人さし指を前にのばすと、海の上にはたちまち橋がかかる。
りっぱな、虹のようにきれいな橋です。
わたしだけに見える、そして、わたしだけがとおれる橋なのです。
わたしの自転車は、そっとその橋の上にさしかかります。
わたしはゆっくりとペタルをふみます。
あわてて海におちこむと大へんですから。
こうして七色のそり橋をゆっくりと渡りましたが、いつもより四十五分も早く岬の村へつきました。
さあ大へんです。
わたしの姿を見た村の人たちは、いそいで時計の針を四十五分ほどすすめるし、子どもたちときたら、見るも気のどくなほどあわてふためいて、食べかけの朝飯をのどにつめ、あとはろくに食べずに家をとびだしました。
わたしが学校につくと、いま起きだしたばかりの男先生はおどろいて井戸ばたにかけつけ、手水をつかいはじめるし、年とった奥さんは奥さんで、ねまきも着かえるまがなく七輪をやけにあおぎながら、片手で衿もとを合わせ合わせ、きまりわるそうなていさい笑いをし、そっと目もとや口もとをこすりました。
目のわるい奥さんは、朝おきるといつも目やにがたまっているのです……
ここだけはほんとのことなので、思わずくすっと笑ったとき、空想は霧のように消えてしまった。
ゆく手から、風にみだされながらいつもの声がきこえたのである。
「小石せんせえ」
ひと月ぶりの声をきくと、ぐっとからだに力がはいり、「はーい」と答えたものの、風はその声をうしろのほうへもっていったようだ。
思ったとおり、外海の側は大きく波が立ちさわいでいて、いかにも厄日らしいさまを見せている。
「おそいのね、今日は。
四十五分ぐらいおくれているかもしれないわよ」
それをきくと、なつかしそうに立ちどまって、何か話しかけそうにした子どもたちは、本気にして走りだした。
先生のほうも、風にさからって、いっそう足に力をいれた。
ときどき方向のきまらぬような舞い舞い風がふいてきて、何度も自転車をおりねばならなくなったりした。
まったく、四十五分ほどおくれそうだ。
海べの村でも一本松はいつも岬にまもられているかたちで、厄日にもたいしたことはないのにくらべると、細長い岬の村は、外海側の半分がいつも相当の害をうけるらしい。
木々の小枝のちぎれてとびちった道を、自転車も難渋しながら進んだ。
押して歩くほうが多かったかもしれぬ。
こうして、ほんとうにずいぶんおくれて村にさしかかったのであったが、村中が一目で見えるところまできて、先生は思わず立ちどまって叫んだ。
「あらッ」
村のとっつきの小さな波止場では、波止場のすぐ入り口で漁船がてんぷくして、鯨の背のような船底を見せているし、波止場にはいれなかったのか、道路の上にも幾隻かの船があげられていた。
海から打ちあげられた砂利で道はうずまり、とうてい自転車などとおれそうもないほど荒れているのだ。
まるで、よその村へきたような変りかただった。
海べりの家ではどこもみな、屋根がわらをはがされたらしく、屋根の上に人があがっていた。
だれひとり先生にあいさつをするゆとりもないらしいなかを、先生もまた、道に打ちあげられた石をよけながら、自転車を押してやっと学校にたどりついた。
門をはいってゆくと、どっと一年生が走ってきて、とりまいた。
そのどの顔にも、生き生きとした目の光があった。
それは、昨夜のあらしのおとずれを、よろこんででもいるように元気なのだ。
うわずった声の調子で、口ぐちに話しかけようとするのを、少し出しゃばりの香川マスノが、わたしが報告の役だとでもいうふうに、その声の高さでみんなをおさえ、
「せんせ、ソンキのうち、ぺっちゃんこにつぶれたん。
蟹をたたきつけたように」
マスノのうすいくちびるから出たことばにおどろき、だんだん大きく目をみひらいた先生は、顔色さえも少しかえて、
「まあ、ソンキさん、うちの人たち、けがしなかったの?」
見まわすと、ソンキの岡田磯吉は、びっくりしたのがまださめないようなようすで、こっくりをした。
「せんせ、わたしのうちは、井戸のはねつるべの棹がまっ二つに折れて、井戸ばたの水がめがわれたん」
やっぱりマスノがそういった。
「大へんだったのね。
ほかのうち、どうだったの」
「よろずやの小父さんが、屋根のかこいをしよって、屋根から落ちたん」
「まあ」
「ミイさんとこでさえ、雨戸をとばしたんで。
なあミイさん」
気がつくと、マスノがひとりでしゃべっている。
「ほかの人どうしたの。
なんでもなかったの?」
山石早苗と目があうと、内気な早苗はあかい顔をしてこっくりした。マスノは先生のスカートをひっぱって自分のほうへ注意をひきつけると、
「せんせせんせ、それよりもまだ大騒動なんよ。
米屋の竹一の家は、どろぼうに入られたんよ、なあ竹一。
お米を一俵も盗まれたんなあ」
と言いました。
同意をもとめられて竹一は、うんとうなずきながら、
「油断しとったんじゃ。
こんな雨風の日はだいじょうぶだと思ったから、今朝になって見てみたら、ちゃんと納屋の戸があいとったん。
どろぼうの家までお米のつぶがこぼれとるかもしれんいうて、お父さんがさがしたけれど、ひとつもこぼれとらなかったん」
と言いました。
「まあ、いろんなことがあったのね。
――ちょっと待って、自転車を置いてくるから、またあとでね」
いつものとおり職員室のほうへ歩いてゆきながら、ふっといつもとちがう明るさを感じて立ちどまった先生は、そこでまたびっくりさせられてしまったのです。
井戸の屋根がふっとんで、見おぼえのあるトタン屋根のあたりがぽっかりと空白になり、そのあたりの空に白い雲がとんでいました。
走りまわっていたらしいうしろはちまきの男の先生が、いつもには似合わないほど愛想のよい顔で、
「やあ、おなご先生、どうです。
昨晩は、だいぶあばれましたな」
と声をかけました。
たすきがけをした奥さんも出てきて、頭の手ぬぐいをぬぎながら久しぶりのあいさつをし、
「一本松が、折れましたな」
と言いました。
「え、ほんとうですか」
先生はとびあがるほどおどろいて、自分の村のほうに目をやりました。
一本松はいつものところにちゃんと立っていますが、よくみると少しちがった姿をしています。
たいした暴風でもなかったのに、年を経た古い松は、枝をはっていたその幹の一部を風にうばわれてしまったらしいのです。
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