初級翻訳・今昔茶話 第4話

今昔茶話

また、尼子氏の上月城を毛利の兵が攻めた時、秀吉が上月城を助けようとして出兵した。それもまた「後詰め」の兵なのだ。
さて、現在行われているヨーロッパの大戦争で、イギリスが、
「うちの国が味方をするからドイツと戦いなさい、絶対に勝ちますよ」
 と勧めて、ノルウェーだのベルギーだの、ポーランドだのチェコだの、オランダだの、フランスだの、ユーゴだの、ギリシャだのに出兵させたのも、実はこの「後詰め」の兵なのである。
ただし、これらはイギリスの方からそれらの国々へ、いわば「押し売り」したような後詰めであって、頼まれたから義理人情や正義感で出した後詰めではない。
だから、それらの国々が負け始めると、待っていましたと言わばかりに、まるでマラソン競争のようなものすごいスピードで自分の兵を引っ込め(撤退し)、そしてまた新しく「後詰め」の兵を押し売りし、その国を地図の上から消してしまう。そうして、その都度、少しでもドイツの兵士や物資をすり減らそうと、キョロキョロあたりをうかがい回っているのだ。
およそ、世界に歴史が始まって以来、アングロサクソンたちのやる「後詰め」の兵ほど、気味が悪く、一番性質(たち)の悪い、ずる賢い戦略というものはない。
兵隊こそ直接は出さないが、中国の重慶にある蒋介石の政権に対するイギリスのやり口も、まさにこの後詰めの兵と同じだ。
「うちの国が後ろについているぞ、武器でも食料でも金でもどんどん送るから、がんばって日本と戦い続けなさいよ」
 と言って、ビルマルート(ビルマ・ロード)を閉じたり開けたり、イギリスのカー大使を自動車であたふたさせたり、香港と重慶の間を飛行機に行ったり来させたりしている。
ところが最近は、イギリスの本土そのものがドイツのせいで危なくなってきたものだから、
「うちの方の国はもうダメだ。だからこれからはアメリカに肩代わりしてもらうぞ」
 と、どうやら冷たい素振りを見せはじめているのだ。後詰めの兵を、そろそろ繰引きに引き出したと同じである。
目下、最大級に、英国の、その後詰め戦術に引っかかっておるのが米国である。
ドンキホーテ、アンクルトムは、自由主義というイスラエリズムをお題目にして、
「英国がドイツに負けたら、同じ自由主義国の我米国もあぶない」
 とばかり、今度は米国の方から、英国を後詰めしておる。
しかし、これは、老獪英国がもう後詰めの手で、自国防衛が出来なくなったので、その手をさえ、たくみに米国へ肩代りさせたまでで、カラクリの糸のあやつり主は、依然として英国なのである。
八 天才

 十九世紀には随分すぐれた外交家が出たが、そのうちでも墺国(オーストリア)のメッテルニッヒはわけても傑物であったと思う。
もっとも愉快に思うことは、彼が十五歳の時、ストラスブルグの大学へ入ったところ、ナポレオンが同じ学校にいて、同じ教師から数学を学んだことである。
その後、長い年が経って、ナポレオンは仏国の皇帝となり、メッテルニッヒは墺国の駐仏大使としてパリに駐在した。
この頃、仏国と墺国とは犬と猿のように仲がわるく、そうして墺国はそれ以前ナポレオンによって連戦連敗させられておった。
そればかりでなく、ナポレオンは、この頃、大挙して墺国に侵入し、墺国をして城下の誓いをさせようと企てておったのである。
ところで、墺国の方はどうかというに、そのナポレオンの侵略を食い止める手段として、当時勃興の途にあった普魯西(プロシア)と同盟しようと策しておった。
ところが、その普国と墺国とは、それ以前から、隣国というところから、却って反目嫉視し合っておる仲であった。
そういう国際関係の渦中にあって、しかも敵国ともいうべき仏蘭西の首府パリに在って、外交手段を揮わなければならないのであるから、メッテルニッヒの位置は、きわめて困難であったといわなければならない。
しかるに、後世、権謀術数の権化のようにいわれておるメッテルニッヒは、その高い家柄と勝れた教養と、まれに見る美貌と、端麗な風采とを以って、堂々と振舞い、談笑の間に折衝し着々と自国の利益を計りながら各国使臣の間に嶄然(ざんぜん)頭角をあらわし、尊敬のマトとなった。
仏国外相のタレーランの如きは、もっとも彼を敬重し、何彼と好意を寄せた。
彼の堂々たる、又、円転滑脱たる外交ぶりは、ざっと次のような有様だったのである。
難問題に就いて、彼はナポレオンと差向かいで話さなければならないことがあった。
そうして、その難問題を、ナポレオンは容易に解決しようとはしなかった。
全欧洲が、獅子のように恐れ憚る大皇帝と、マキャベリズムの実行者のような三十三歳の大外交官とは、そこで、しばらく沈黙した。
千両役者同志の腹芸なのである。
卒然とメッテルニッヒはいった。
「陛下は、ストラスブルグの大学におられた頃から、数学の天才として有名でございましたな」
 すると、ナポレオンは、眼へ水でもはじき込まれたような顔をして、
「そういえば貴官もその頃、同じ大学にいたように思うが……」
「さようでございます。
……ですから私は、陛下とは同校のよしみある者でございます」
 皇帝ナポレオンの態度は、俄に、十五六歳の、イタズラ小僧のような、昔懐かしい態度にかわり、
「さようさよう同校生じゃ」
「陛下は、数学の天才の他に、もう一つ天才があるというので評判でございました」
「何かな?」
「陛下が、乳屋の娘へおやりになりました恋文が、たいへん名文だというので……」
 この時のナポレオンの顔を、なぜ当時の宮廷画家はスケッチして置かなかったのであろう。
メッテルニッヒは云いつづけた。
「陛下は、数学の他に、文章の天才だという大評判だったのでございます。
……特に婦人におつかわしになる文章が……」
「もうその辺でよろしい」
 難問題は、数日後、墺国に有利に解決したそうである。
九 裏の事情

 今度の独ソ戦争で、常識的に思い出されるのは、ナポレオンのモスコー遠征であろう。
ナポレオンがモスコーを遠征したのは、即ち、露国を征伐したのは、勿論、ナポレオンの英国に対する封鎖政策に、露国が協力しなかったのが大きな原因なのであるが、それ以外に、小さないくつかの感情問題があったのである。
そうして夫れは、女と外交官に関係あることなのである。
第一には、ナポレオンが、皇后ジョセヒンに子がないところから、これを離別し、露国皇帝の皇妹を皇后として迎えようとしたところ、露帝アレキサンダー一世は、大体承諾したが、皇太后が反対して成立せず、それをナポレオンが心よく思わなかったことである。
第二は、その露国皇太后が音頭取りで、国内に排仏熱を高め、駐露仏国公使サバリーに対し、皮肉な、陰険な、女性的迫害を加え、首都ペテルブルグ中で、泊るに旅館の一室をも貸与しないような酷遇をしたことである。ところが、このサバリーという公使は、めずらしくも女性のように愚痴っぽい外交官で、自分に対するそうした個人的なイジメをいちいち本国へ報告したため、それがナポレオンの感情を逆なでしてしまいました。その結果、フランス国内では「ロシアを懲らしめてやるべきだ」という声が、少しずつ高まっていったのです。

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