自分も死にかけている、和泉の人はもう息を引き取っているだろうと思ったが、もし生きられるものならもう一度生きてみたいものだと、ようやくほのかな希望が心に芽生え出しました。
それは、まるで予想もしていなかった突然の思いつきでした。
もし生きられたらどうなるのだろうかと、忘れかけていた何かを思い出すように、橘の姫の顔が急に頭の中に浮かび上がってきました。
だが、もう目の前の土手も人の姿も見えませんでした。
彼は突然、相手がまだ生きているかどうかをもう一度確かめたくて、できる限りの大きな声で叫びました。
「和泉の猟師め! 相討ちだな!」
だが、実際にはもう声など出ないばかりか、手先さえピクリとも動きませんでした。
頭のほんの一部分だけがかろうじて働いている状態でした。
生田川の岸辺へと二人の姿がしだいに遠ざかっていった時分、この狂気のような一瞬の出来事は、基経には何が何だか理解しがたい光景であり、あるいはただの水鳥の居場所でも探しに行ったのだろうかと思わせるほど、わけの分からない一時の小競り合いに見えていました。
しかし、橘の顔からは血の気が引き、ぞっとするような予感に青ざめていきました。
それは、彼らがまさにその命の的を射合うために遠くへ駆け出していったことに、違いなかったからでした。
いつかはそんな日が来ることを知ってはいたものの、今日この場に招き入れた二人に互いの命を競わせ、殺し合わせることになってしまったのは、偶然とはいえ、その非業の時を早めてしまったようで悲しかったのです。
一人が生き残るためには、もう一人が死ななければならなかったのです。
「お父様、あとに続いてください!」
橘の声はたったそれだけの言葉でしたが、基経にすべての事情を瞬時に悟らせ、基経はもう手遅れであることを知らなければなりませんでした。
「お前もそう思うのか……」
「早くです、お父様!」
基経は同じ土手の上を駆け抜け、ふたりのあとを追いかけました。
時刻はすでに二十分ほど経っていたでしょうか、春の日の短い夕暮れが、しだいにぼんやりとした生田川のほとりを何筋もの影で包み込んでいきました。
基経がたどり着いた土の上で、津の国の茅原は半身を川の方に乗り出したまま、深く胸を射抜かれてすでに息絶えていました。
和泉の国の猟師は土手の下へと転がり落ち、こちらも胸の深部から背中へと矢の鏃(やじり)が突き抜け、すでに息はありませんでした。
番えて放たれた最初の一矢は、ほぼ同時に互いの胸部を射抜いたとしか、時間や矢の本数の関係から考えることはできませんでした。
鏃の深さと狙いの確かさは、二人の精神的な意地が重なり合い、かくも鮮やかに互いの命を奪い合うことにその生涯をかけて挑んだのだと思わせるものでした。
どうあっても、二人はここまで来なければ決着がつかなかったのです。
どちらの運命にせよ、ここまで行き着くしかなかったのでした。
基経は首を垂れ、二人の前にそっと手を合わせました。
美しいと言えるのかどうか、本当のところは分からない二人でした。
橘はやっとの思いで二人の亡骸のある土手のうえにたどり着くと、そのまま草の上に膝をつき、声を殺してむせび泣きました。
ここまでせずにいられなかった二人なのだと分かってはいたものの、まさか今日、しかも自分の目の前で決闘の果てに命を散らすとは、考えてもみませんでした。
長い間、橘の門の前にやって来ては元気いっぱいに颯爽と競い合っていた彼らの姿を思い返すと、目の前で冷たい亡骸となっている今の状況がどうしても結びつきませんでした。外の道はなかったのか、本当にほかに生きる道はなかったというのでしょうか。
「早まったことをなされた……」
一応、橘はそう口に出してはみたものの、今となってはここまで来なければならなかった二人であることは痛いほど分かっていました。
橘は、矢傷のあとに清らかな懐紙をあてがい、その若い男たちの香りがまだ生きて漂っている顔の上に、それぞれ袿(うちき)の左右の袖をほぐし取り、綾模様のある方を上にして一人ずつに片袖をそっとかぶせました。そして、声には出さずに二人に語りかけました。
「今こそ、お二人の真心ありがたくいただきます。わたくしにとっても、もはやあとをおいするほかにお礼の申し述べようもございません。どうか、後から橘がまいりますまで、しばしお待ちくださいますよう。必ずや、必ずや神にかけて今宵のうちにも参りたいと存じております」
彼女は胸の前で手を組み合わせ、まぶたをそっと下ろしたまま、長い間その場から動きませんでした。
こんなことになる前に、どうしててもっと早く二人に会って話し合わなかったのだろうかと、橘は自分の袿の下にある若者たちの顔を心に思い描きました。若者たちの顔は、この瞬間が一番美しくさえ映っていました。
「よくやってくれた……。お前たちもさぞ喜んでいることだろう。もう何も言うべきことはない、お前のその心づくしこそが、二人を心安らかにさせてくれるはずだ」
「お父様、どうか立派なご最期を見届けてくださいませ」
「よく気がついたな。一緒に拝むとしよう」
父は二人の矢傷を調べました。
狂いなく深く抉られた鏃のあとも、二人ほぼ同じ見事さでした。
しかも、相討ちを受け入れたその決意は、二人の表情に一種の穏やかささえ深く刻み込んでいました。
「見事な腕前だ、橘、お前も見たか」
「はい……いいえ、でも、なぜかよく分かるような気がいたします」「お前は幸せとは言えないかもしれないが、女に生まれてこれが最高の誉れであることは、決して忘れないでおくれ」
「わたくしは、お二人様の大切な命を受け止めるほどの大層な者ではございません」
「お前はこの後、どうするつもりだ。絶対に軽率な真似をしてはならないぞ」
基経は、橘の顔に少しも揺るがない、固く決心した様子を感じ取り、なんとかしてその気持ちを挫かなければならないと思いました。
しかし、基経にそれほどの力が残っているかどうかは、とても怪しいものでした。
橘は、どこか怒りを帯びた声で言いました。
「わたくしの考えは、もう決まっております」
「いや、お前は今までよりもずっと強く、しっかりと生き抜いてくれなければ困る」
基経は、橘の目をじっと見つめ返しました。
しかし、橘の目は何か遥かなるものに憧れているかのようにぼんやりと潤んでおり、その奥からちらりと覗く瞳の輝きは、美しいというよりもむしろ気高いものでした。
人があのような強い意志を宿した瞳を見せる瞬間というのは、人生において滅多にあるものではありません。
基経は、我が子のその気高い眼差しに、思わず身が引き締まるような思いがしました。
「わたくしは、人の命を軽んじるような、浅はかな女にはなりたくはございません」
「娘よ、父のそばに寄り添っておくれ」
橘は父親にすがりつくように顔を寄せ、ふたたび、それと気づかれないほどの小さな声でしくしくと泣きました。
基経は、娘をほんの一瞬たりとも一人にしておくことの恐ろしさと、それを防ぐためには片時も手元から離してはならないことを痛感しました。
しかし、自分の娘がこれほどまでに一人の強い女として成長していたとは、今の今までまったく予想していなかったことでした。
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