初級翻訳・姫たちばな 第6話

姫たちばな

ついに、そのカイツブリは二度と同じ水面には浮かんで来ませんでした。
和泉の若者が、怒りに任せて詰め寄りました。
「貴様の矢があせったからだ! なぜ合図よりも早く射ったのだ!」
「何を言う、同時に射たわ!」
「貴様の矢が先に水を打って鳥を驚かせたことは、基経殿もご存じのはずだ!」
 和泉の若者は激怒して一歩前に出ました。
津の若者も太刀の柄に手をかけ、相手の熱く荒い息づかいに押し返されそうになりながら叫びました。
「それなら、あそこの川下へ行って矢を射合おうではないか!」
「ここで決着をつけてやる!」
 和泉の若者は自分の胸を激しく叩いて叫びました。
「今日こそ、見事に貴様を討ち取って見せるぞ!」
「こちらこそ、長年のこの決着をつけてやる!」
「走れっ!」
 二人は全く同じ言葉を叫び合うと、あらかじめ示し合わせていたかのように、まるで正気を失った狂人のように土手の上の川下めがけて一目散に駆け出していきました。さっきカイツブリを射損ねた場所が、偶然にもふたりの目的地になっているようでした。
走りながら、津の若者は周りに気を配りながら言いました。
「基経様に間に割り込まれたら、話がめんどくさくなって大変だ。
もっと遠くへ急ぐぞ」
「お前こそ、もたもた遅れるなよ!」
ふたりはまるで火がついたようにさらに激しく走りながら、顔を突き合わせるようにして叫び合いました。
「今日という日が来るのを、どれほど待ち望んでいたことか!
この日を目標に、今まで生きてきたんだ!」
「今日お前を射抜けなかったら、いったいいつお前を倒せるっていうんだ!」
津の若者と和泉の若者は、基経がいる場所からどんどん遠ざかり、ついに橘姫の姿も小さく見えるほどになっていました。
まるで顔をぶつけ合うのではないかと思うほどの勢いで、とにかく走り続けました。
「姫は、お前と俺の間にはさまれて、本当に困り果てていらっしゃるぞ」
「お前さえいなければ、姫も父親の基経様もみんな穏やかに暮らせただろうに!
お前が現れてから、すべてがおかしくなったんだ!」
津の若者は走りながらも、心の中のやり場のない嘆きをぶつぶつと絶やしませんでした。
すると、和泉の若者はからからと大笑いしました。
「それはこちらのセリフだ!
津の泥くさいお前ごときに、姫がなびくなどと本気で思っていたのか?
それがそもそもお前の大きな間違いだ!」
「もう決着をつける時が来たな。
このあたりでどうだ」
ふたりは、先ほどカイツブリを射損ねた土手のあたりまで来ると、パッと走るのをやめました。
土手には春の草がびっしりと生い茂り、まるで中国の美しい絹の枕のようにふかふかとしていました。
ふたりは冷たい草の上に、裸足を心地よさそうにつけました。
「ここはいい場所だ。どちらがやられるにしても、寝心地がよさそうだな」
津の若者はしっかりと足をふんばって遠くの上流を振り返りましたが、すでに橘姫親子の姿は間に生えている木の陰になって、まったく見えなくなっていました。
「距離はどれくらいにする?」
「五十歩ってのはどうだ?
お前を射るには、これじゃ少し近すぎるかな」
和泉の若者は相変わらず冷たく笑いながら、歩幅を確かめるようにして言いました。
「じゃあ三十歩にするか? 狙いが外れて空振りしないように気をつけろよ」
ふたりは五十歩ほどの間隔をあけて、それぞれの位置に分かれました。
弓はまるで生きている毒蛇のように、ふたりの両手にぴたりと絡みつきました。
「何か言い遺したいことがあるなら、今のうちに言えよ」
ふたりは示し合わせたかのように同時にそう言って、お互いの胸のうちにある本音を聞きたがりました。
こんな状況になってもなお、相手の言葉を聞きたがるなんて、自分でも不思議な気持ちがしました。
「もしお前があとに残ったら、姫にこう伝えてくれ。『津の茅原(ちはら)は、心から最後まであなたをお慕いしておりました』とな。我が生き残ったなら、お前の想いもちゃんと伝えてやるよ」
「同じようなことを繰り返すなよ。
だが、今日こそは因縁の命を断ち切って、すっきりしたいものだな。
お前もおそれることなく、しっかり構えろよ」
ふたりは最後に、どこか冷ややかな笑みを浮かべ合いました。
もう話す言葉など何もありませんでした。
笑い合う以外に、自分たちの気持ちを表す方法も、残された手段もなかったのです。
「遅れると基経様に見つかってしまうぞ……一生の不覚をとることになる!」
「同時に矢を放つタイミングを合わせるんだ。神に誓って、絶対に裏切るなよ!」
ふたりは矢をぐっと番えました。
ふたりとも手のひらは汗と油でベタつき、指先がギラギラと光っていました。
「行くぞ!」
「いいか……?」
「射抜け!」
ほとんど同時と言っていい瞬間にその言葉が放たれ、それはお互いの耳に届く最後の人の声となりました。
ついに矢が放たれました。
津の若者の矢羽と、和泉の若者の矢羽が、白と黒の羽を擦れ違わせたその場所は、ふたりの距離のちょうど真ん中でした。
悲しい矢の唸り声は、目の前ののどかな春の景色には全く似つかわしくない、聞いた者の心を凍りつかせるような不気味な叫びを残して通り過ぎていきました。
津の茅原はそのとき、胸板のあたりをドンと重いもので思い切り殴られたような衝撃を受け、前かがみに体が真二つにぐにゃりと歪みました。
「やられた……」と思い、何か支えになるものを手で探そうとしましたが、周りには一本の木すら生えていませんでした。
再び胸の中から熱いものが一気にこみ上げてきた時には、すでに両膝の力が抜けて立っていられなくなりました。
彼はぐにゃりと潰れるように倒れ込んだその瞬間、ようやく和泉の若者のほうをしっかりと見つめることができました。
和泉の若者もやはり土手のうえに倒れ込み、何かあたりを引っかくような格好をしながらも、津の若者が苦しでのたうち回る様子を、目だけを爛々と生き残らせてじっと見つめていました。
「人間の死ぬ間際の顔って、あんなふうになるものなんだな」と思いながら、砂をかぶったような顔で見返しました。
しかし、いまやお互いに笑うことも大声を出すこともできず、ただ、ふたりが同時に敵の矢を胸に受けてしまったことだけを理解していました。
冷たい汗のような笑みが、かすかに口もとに浮かびました。
「相討ちだな……」
彼はそう叫びましたが、はたして相手に聞こえたかどうかは分かりませんでした。
和泉の若者もそのタイミングで、まるでゴイサギ(鳥)のような奇妙な声を上げました。意味こそ聞き取れませんでしたが、明らかに「相討ちだな」と納得し合った瞬間の声でした。
和泉の若者の支えていた手がガクッと折れ、次第に土手の縁のほうへと転がり落ちるようにもがき始めました。
もうそこは、生田川の土手の下でした。
津の若者は、「和泉のやつももう助かるまい」と思いましたが、突然冷たい風がビューッと吹き抜け、自分の顔の皮が剥がれるような強烈な寒さを感じたかと思うと、ずっと先まで見えていたはずの土手の続きが、すっかり見えなくなってしまいました。
自分の流血の具合を確かめようと手で周りの地面を探ってみると、まるで沼のようにどろどろとした感触が広がっていました。

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