初級翻訳・楽聖物語 第60話

楽聖物語

幼いドヴォルシャークは、その演奏を聴いて、どれほど音楽への情熱をかき立てられたことでしょう。
やがて彼は自分から進んで村の小学校の先生にヴァイオリンと歌を習い、生涯をかける「音楽」の道へ第一歩を踏み出したのです。
ボヘミアは昔から「音楽の国」と言われています。
イタリア人が歌うことに優れているように、ボヘミア人はヴァイオリンを弾くのがとても上手で、「旅人がボヘミアで出会う人の二番目は必ずヴァイオリン弾きだ」とか、「ボヘミア人はヴァイオリンさえあれば、牢獄の中だって楽しめる」とさえ言われています。
幼いドヴォルシャークが、旅回りの音楽団や小学校の先生から受けた音楽の指導を、日本の感覚で「大したことのないもの」と思ってはいけません。
12歳になると、少し離れたツローニックという町へ行き、叔父さんの監督のもとで教会のオルガン奏者に弟子入りして、ようやく本格的な音楽教育を受けることになりました。
オルガンやピアノの弾き方から、基礎的な理論、和声学などをものすごい熱心さで学び、さらにカムニックという町で1年間の修行を積んで、お父さんのもとへ帰りました。
何年も離れていた故郷へ帰るのですから、音楽の修行をしてきたドヴォルシャークには、当然、村の人たちに見せるための「お土産」が必要でした。
ちょうどそのとき町でお祭りがあったので、若くてやる気に満ちた作曲家ドヴォルシャークは、新作の「ポルカ」を町の楽団に渡して演奏してもらうことにしました。
期待と誇らしさでワクワクしているドヴォルシャークと、それを取り囲む人々の前で、ポルカは高らかに鳴り響く――はずでした。しかし、いきなり音楽は調子外れの不協和音でめちゃくちゃになり、驚き騒ぐ人々の前で、そのひどい演奏は終わってしまいました。
あとで指揮者が調べてみると、トランペットの楽譜を、実際に演奏される高さに合わせて書くべきところを、ドヴォルシャークの不注意と知識不足のために、原調のまま書いてしまっていたことが分かりました。若い町の作曲家は、穴があったら入りたいほどの恥をかいてしまったのです。
しかし、ドヴォルシャークは、そんなことで諦めてしまうような少年ではありませんでした。自分の無知と不注意を思い知ったドヴォルシャークは、かえって燃えるようなやる気を起こし、ひたむきに音楽の修行へと突き進みました。
父親が、そんな無謀にも思える息子の望みをすぐには許さなかったのも、無理のないことでした。
ポルカ一曲満足に作れないような息子なら、田舎に残って親から受け継いだ肉屋と宿屋を営んでいく方が、よほど安心で安全な人生に見えたからです。
しかし、数か月にわたって議論を重ね、泣きついたり、時には叱られたり、なだめられたりといったやり取りが続いた末、父親もとうとう息子の熱意に負けて、音楽の道へ進むことを認めてくれました。
こうして十六歳になった少年ドヴォルシャークは、ようやく旅支度を整えて首都プラハへ向かい、ボヘミア教会音楽協会のオルガン学校に入学して、本格的な音楽の勉強に打ち込むことができたのです。
ところが、父の反対を押し切って上京した身では、十分な学費を援助してもらえるわけもなく、加えて実家の家業もあまりうまくいっていなかったため、仕送りは途絶えがちでした。
ドヴォルシャークは、少年時代に練習したヴァイオリンの腕前を活かして、なんとか飢えをしのぎながら勉強を続けるよりほかありませんでした。
その苦学生としての生活が、若いドヴォルシャークの身にどれほどこたえたかは、想像するまでもないでしょう。
カフェでヴィオラを弾いたり、病院でオルガンを演奏したりしながら、ただただ、より高い音楽の世界への憧れを胸に抱き続け、三年の課程を修了したのです。
二十一歳になったドヴォルシャークは、プラハに新しくできた国民劇場の楽団員に採用されました。そこで、ボヘミア国民音楽の祖とも言えるスメタナの指揮のもと、ヴィオラ奏者として働きながら、スメタナが切り開いた「ボヘミアの国民音楽を築き上げる」という使命のために、生涯を捧げる土台を固めていったのです。

ドヴォルシャークは――繰り返しになりますが、決して最初から華々しく活躍するような天才タイプではありませんでした。
長い修行と準備の期間を経て、さなぎが蝶へと大きく羽ばたいたのは、実に三十二歳の時のことです。その年、彼の歌劇「王と坑夫」が国民劇場で上演され、さらにボヘミアの国民的な要素を取り入れた交響曲が発表されたことで、次第に人々の注目を集め、音楽界でその名が知られるようになっていきました。
三十三歳で結婚したドヴォルシャークでしたが、新婚生活の貧しさに長く苦しむことはありませんでした。
翌一八七五年、彼が三十四歳のとき、オーストリアの美術省が厳正な審査の末、ドヴォルシャークに対してわずかながら年金を支給することに決めたのです(当時、ボヘミアはオーストリアの支配下にありました)。
その年金を決める委員の中に、あのブラームスがいたことは、ドヴォルシャークにとってどれほどの幸運だったことでしょう。
鋭い目を持つブラームスは、審査に出された作品の中に混じっていたドヴォルシャークの曲を見て、そこに込められたボヘミア音楽の個性と、それを捉える才能や詩情をすぐに見抜きました。ブラームスは彼を高く評価し、さらに直接会って作品の発表を助けたのです。こうして、ボヘミアの無名だった青年作曲家は、傑作の一つ「スラヴ舞曲」を世に送り出し、一気にヨーロッパ中でその名声を轟かせることになりました。
後輩を大切にするブラームスの親切さは、かつて自分自身がシューマンから受けた恩を、そのまま受け継いだものだったのかもしれません。
これは、音楽史における美しい逸話の一つとして今も語り継がれています。
リストやビューローも続いてドヴォルシャークを世に紹介し、その名が広く知れ渡ると同時に、プラハの音楽院は彼を作曲法の教授として迎え入れました。
その幸運の半分はブラームスのおかげだとしても、結局はドヴォルシャーク自身の長い努力の賜物であり、まさに「大器晩成」という言葉がぴったりの見事な成功でした。
ドヴォルシャークの名は新世界(アメリカ)や旧世界(ヨーロッパ)にまで広まり、一八八四年にはイギリスの招きに応じて自作の「聖母は悲しみに立ち給う」を指揮するためにロンドンへ渡りました。翌年にはバーミンガム音楽祭のために新作を書き、その翌年も再びイギリスへ渡って自作の聖譚曲を指揮し、一八九一年にはケンブリッジ大学から名誉ある音楽博士の称号を授けられました。
一八九二年、五十一歳になったドヴォルシャークは、招かれてアメリカへ渡り、ニューヨークの国民音楽院で芸術校長に就任しました。一八九五年までの三年間にわたるアメリカ滞在中に、彼の一代の傑作である「新世界交響曲」が作曲されたのです。

尊き郷愁

 ベートーヴェンの苦悩と、それを乗り越える闘争と勝利の記録とも言える偉大な交響曲や、ブラームスが厳格な形式の中に託した雄大で古風な交響曲。

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