初級翻訳・火星兵団 第76話

海野 十三

火星兵団に降参してしまったなどという、ふがいない歴史なんか、残してもらいたくない」
 佐々刑事は、火星の上にたったひとりがんばって、はるか遠くの地球の人々を励ましたのであった。

46 彗星対策

 三月の十何日ごろから、肉眼でもモロー彗星が見えるようになった。
モロー彗星の位置は、南東の地平線に近い空であった。
太陽が西に沈んで、あたりがほのかに暗くなると、うっすりと青白い光の尾をひいたこの妖星(ようせい)は、急に輝きはじめる。
日が暮れかかると、誰も彼も言い合わせたように南東の空に首を向けた。
家々の窓には家族中の顔が並び、道行く人は立ち止まり、あっちに一団、こっちに一団と、不安な顔をそろえるのだった。モロー彗星は、そういう地球の上の騒ぎを知ってか知らないでか、絵にかいたようにしずかに、低い空にかかっているのであった。
無言の威圧だ。
「あれが、モロー彗星ですか」
「そうですよ。
今にあれがどんどん大きくなって、月よりも大きくなるそうです」
「もしもし、月よりも大きくなるどころじゃありませんよ。
彗星は自分で光っているんですから、太陽よりも明かるくなりますよ」
「ほんとうですか。
あれは自分で光っているんですか」
「そうですとも。
今に空いっぱいに彗星がひろがりますよ」
「ええっ、何ですポーツ」――いや、「ええっ、何ですって」
「つまり、空というものが見えなくなってしまうのです」
「ええっ、よくわかりませんなあ」
「さあ、どう言ったらいいか。
つまりですな、空が見えなくなって、その代り彗星の表面ばかりが見えるようになるでしょう。
その時は、他の星は全く見えなくなりますよ」
「へええ、驚きましたなあ。
太陽も月も見えなくなるのですか」
「そうですとも。
太陽も月も、地球から言うと、モロー彗星の向こう側になってしまうのですからねえ」
 にわか天文学者が急にふえた。
モロー彗星が肉眼で見え出すと、騒ぎは、いよいよ大きくなった。
『モロー彗星対策相談所』とか、『延寿相談所』などという珍妙な看板が、どこの都会にも、十や十五はあらわれた。
人々の中に、何とかしてこの際、自分たちの命を全うしたいものと思い、この珍妙な看板をかけた家の門をくぐる者が少くなかった。
いや、少くないどころか、その門前は、順番を待つ人々で、長い列を作っていた。
「さあ、お次は九十番、九十番のお方!」
 と、受付の男が呼ばわると、待っていた人は番号札をにぎって、その延寿相談所長室へはいって行くのであった。
「まず、相談料をいただきます。
相談料は先払いで百円です」
「百円? 高いですね」
「高いと思えばおよしなさい。
何しろここで、あなたの家の御家族の命が助かるか、助からないかという場合ですからな。
別に私どもは、こんなことでお金をもうけようとは思わないのです。
ただ、この通りたくさんのお客さんに押寄せられ、門や家がこわれそうなので、その混雑を防ぐために、少しばかり高いお金を支払ってもらって、入場整理をやっているのです。
気に入らなければおよしなさい。
ただし、命のせとぎわですからな」
 と、へんなことを言って、困っている人を困らせたり、おどかしたり。
それで客は、せっかく決心をしてここまで来たのでもあるし、百円はちょっとこたえるが、それで命が助かるなら、まあ安いものだと思ってその金を支払い、さて、モロー彗星の害からのがれる方法は? と相談所長にうかがいを立てると、
「それはいい方法があります。
しかし、決して、ほかの人に洩らしてはいけませんよ。
つまり鉱山――銅や石炭やそういう鉱物の出る山の坑道の、奥深く逃げこんでいるのです」
「鉱山の坑道にはいっておれば、かならず助かりますでしょうか」
 と、客はふに落ちない顔である。
「そりゃもう、たしかにうまく行きますよ」
 と、モロー彗星対策延寿相談所長は、大きくうなずいた。
「モロー彗星が、地球に衝突した時を考えてごらんなさい。
地上なんかにおられやしませんよ。
彗星が衝突したとたんに、地上は、一せいに火事になってしまいますよ。
とても熱くて、おられるものではありません。
おまけに彗星は地球をこわして行きますよ。
ビルヂングであろうが、岡であろうが、山であろうが、ぶっかいて行きますよ。
その時人間が地上におれば、一しょに持って行かれますよ。
だから、今お教えしたように、坑道の底におれば、助かるわけです。
つまり地球が一皮むけたくらいでは、坑道の底におれば、まず大丈夫ですからね。
どうです、たしかな方法でしょう」
 と、相談所長はとくいである。
「なるほど、なるほど」と、客は感心してうなずいたが、
「しかし所長さん、地球が粉々にこわれるだろうという話ですが、その時は、坑道の底にいても地表にいても、やられることは同じことでしょう」
「いや、同じではありません。
地表にいる人間がやられる時、坑道の底にいる人間は、まだ生きています」
「しかし、遅かれ早かれ、坑道の底にいても、やられるではありませんか」
「それは仕方がありませんよ。
少しでも、いのちが長くのびれば、それでいいとしなければならんですぞ。
まず五、六分は長くのびます。
あまりよくばりなさるな」
 客は、あっけにとられた。
百円は、ただどりをされたようなものだ。
また別の相談所では、海中へ逃げる方法を売っていた。
それは……。
「海へ逃げこむのが一ばんよろしゅうございますよ」
 と、別の相談所長は言うのであった。
「つまり、陸は安心がならないのです。陸はモロー彗星につきあたられると粉々に飛散ってしまうし、地上は、大地震の起ったように大ゆれにゆれるから、人間はつぶされてしまいますよ。
そこへいくと、海の中にはいっておれば、ずっと安全ですな。
どうです、おわかりかな」
 その相談所長は、そう言って鼻をうごめかすのであった。
「どうもわかりませんが、先を話して下さい。
海の中に逃げこむと言っても、どうすればいいのですか」
 と、客は不思議がる。
「つまりその、潜水艦に乗っているのです。
陸はいくらぐらぐらしようと、また海上にどんなに波が立とうと、海の中は、あんがい静かです。
たとえぐらぐらしても、潜水艦なら、どんなにゆれても大丈夫です。
上と下とがあべこべになっても、心配はありません。
だから命が助かりたいと思ったら、ぜひ潜水艦の中へ、ひなんをなさるのですな」
「なるほど、潜水艦はなかなかいい思いつきですなあ」
 と、客は言ったが、
「しかし、わたしたちを乗せてくれる潜水艦は、どこにいますかねえ」
 と、たずねた。
すると相談所長は、
「さあ、そこまでは知りませんよ。
手前のところでは、命をのばす御相談にあずかるだけで、あなたを乗せてくれる潜水艦がどこにいるか、そんなことまで世話をやくわけにはいきませんよ」
 と、つっ放すように言った。
人々が難儀をしている時に、ろくでもないことを言って金もうけをしようという、けしからん者がたくさん出て来た。
モロー彗星の光は日とともにつよくなり、そうしてますます大きくなっていった。
地球の人類の不安は、モロー彗星の大きさとともに増していった。
町には気が狂った人が、だんだん人数を増していった。

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