初級翻訳・猫の事務所 第2話

宮沢 賢治

決闘を……」
「ジャラジャラジャラジャラン!」
事務長が大きな声で叫びました。これは、決闘を始めさせないように、わざと邪魔をしたのです。
「いや、喧嘩するのはよしたまえ。かま猫君も虎猫君に食わせようとして拾ったんじゃないだろう。それから今朝言うのを忘れたが、虎猫君、月給を十銭上げてやるよ」

虎猫は、最初は怖い顔をして聞いていましたが、最後には嬉しくなって笑い出しました。
「どうもお騒がせいたしまして、申し訳ございません」
そう言ってとなりの席のかま猫をジロリと見てから、腰掛けました。
みなさん、ぼくはかま猫に同情します。

それからまた五、六日たって、似たようなことが起きました。こんなことがたびたび起きるわけは、一つは猫たちの怠け癖、もう一つは猫の前足、つまり手がとても短いためです。
今度は三番書記の三毛猫が、朝仕事を始める前に、筆をコロコロ転がしてしまい、とうとう床に落としてしまいました。
三毛猫はすぐに立ち上がればいいものを、面倒くさがって、さっきの虎猫と同じように、両手を机越しに伸ばして拾おうとしました。
今度もやっぱり届きません。三毛猫は背が低かったので、どんどん乗り出して、とうとうお尻が椅子から浮いてしまいました。
かま猫は拾ってあげようか、やめておこうかと、この前のこともあるのでしばらくためらって目をパチパチさせていましたが、とうとう見ていられなくなって立ち上がりました。
ところがちょうどその時、三毛猫は乗り出しすぎてガタンとひっくり返り、頭を強く打って机から落ちてしまいました。
とても大きな音がしたので、事務長の黒猫もびっくりして立ち上がり、後ろの棚から気付け用のアンモニア水の瓶を取り出しました。
ところが三毛猫はすぐに起き上がり、怒りに任せていきなりこう叫びました。
「かま猫、きさまはよくも僕を押しのけたな!」
今度は事務長がすぐに三毛猫をなだめました。
「いや、三毛君。それは君の勘違いだよ。かま猫君は好意でちょっと立っただけだ。君には触れてもいない。しかし、まあ、こんな小さなことは気にすることはないじゃないか。さあ、えーと、サントンタンの転居届けと……えーと」
事務長はさっさと仕事にかかりました。
そこで三毛猫も仕方なく仕事に戻りましたが、やっぱりたびたび怖い顔をしてかま猫をにらみつけていました。
こんな具合ですから、かま猫は本当につらかったのです。かま猫は、ふつうの猫になろうとして、何度も窓の外で寝てみましたが、どうしても夜中に寒くてくしゃみが止まりません。結局、しかたなく竈(かまど)の中に入るのでした。
なぜそんなに寒くなるのかといえば、毛皮が薄いからです。なぜ毛皮が薄いのかといえば、それは土用の暑い時期に生まれたからです。
「やっぱり僕が悪いんだ。しかたないなあ」
かま猫はそう考えて、まんまるな目にいっぱいの涙をためました。
それでも、事務長さんがこんなにも親切にしてくれるし、かま猫仲間のみんなが自分の事務所にいることを名誉に思って喜んでくれている。どんなにつらくても僕はやめないぞ、きっとこらえるぞ。かま猫は泣きながら、ぎゅっとこぶしを握りしめました。
ところが、その事務長までもが、あてにならなくなってしまいました。
猫なんていうものは、賢いようでいて、実はばかなところがあるのです。
ある時、かま猫は運悪く風邪を引いてしまい、足の付け根がお椀のように腫れ上がって、どうしても歩けなくなりました。とうとう一日、仕事を休んでしまったのです。
その時のかま猫のもがきようといったらありません。
泣いて、泣いて、泣き明かしました。
納屋の小さな窓から差し込んでくる黄色い光を眺めながら、一日中ずっと目をこすって泣いていました。
その間、事務所ではこんな会話が交わされていました。
「あれ、今日はかま猫君がまだ来ないね。遅いな」
事務長が、仕事の合間に言いました。
「なあに、海岸へでも遊びに行ったんでしょう」
白猫が言いました。
「いや、どこかの宴会にでも呼ばれて行ったんだろう」
虎猫が言いました。
「今日どこかで宴会があるのか?」
事務長はびっくりして尋ねました。猫の宴会に自分が呼ばれないなんてことは、あるはずがないと思ったからです。
「なんでも北の方で開校式があるとか言っていましたよ」
「そうか……」
黒猫の事務長は黙り込んで考え込みました。
「どうしてかま猫は、最近あちこちへ呼ばれているんだよ」
三毛猫が言い出しました。
「なんでも今度は、おれが事務長になるとか言っているそうですよ。だから、かま猫は馬鹿なやつらを怖がらせて、あらんかぎりのご機嫌をとっているんです」
「本当かい? それは……」
黒猫が怒鳴りました。
「本当ですよ。お調べになってごらんなさい」
三毛猫は口を尖らせて言いました。
「けしからん! あいつには俺がずいぶん目をかけてやってきたというのに。よし、俺にも考えがある」
そうして事務所は、しばらく静まり返りました。
さて、次の日のことです。
かま猫は、やっと足の腫れが引いたので、喜び勇んで朝早く、ごうごうと風が吹く中を事務所へやってきました。
すると、いつも来るとすぐに表紙を撫でて確認するほど大切にしていた自分の仕事の原簿が、机の上からなくなっています。あちこちの机にバラバラに分けられていたのです。
「ああ、昨日は忙しかったんだな」
かま猫は、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独り言を言いました。
ガタッ。
扉が開いて、三毛猫が入ってきました。
「おはようございます」
かま猫は立って挨拶しましたが、三毛猫は黙って腰掛け、あとはいかにも忙しそうに帳面をめくっています。
ガタン。ピシャン。
虎猫が入ってきました。
「おはようございます」
かま猫は立って挨拶しましたが、虎猫は見向きもしません。
「おはようございます」
三毛猫が言いました。
「おはよう。どうもひどい風だね」
虎猫もすぐに帳面を繰りはじめました。
ガタッ、ピシャーン。
白猫が入ってきました。
「おはようございます」
虎猫と三毛猫が一緒に挨拶しました。
「いや、おはよう。ひどい風だね」
白猫も忙しそうに仕事にかかりました。
その時、かま猫は力なく立って黙ってお辞儀をしましたが、白猫はまるで知らないふりをしています。
ガタン、ピシャリ。
「ふう、ずいぶんひどい風だね」
事務長の黒猫が入ってきました。
「おはようございます」
三人はすばやく立ってお辞儀をしました。
かま猫もぼんやりと立ち、下を向いたままお辞儀をしました。
「まるで暴風だね、ええ」
黒猫は、かま猫を見ようともせずそう言いながら、すぐに仕事をはじめました。
「さあ、今日は昨日の続きのアンモニアツクの兄弟を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニアツク兄弟の中で、南極へ行ったのは誰だ?」
仕事がはじまりました。
かま猫は黙ってうつむいていました。原簿がないのです。それを何とか伝えたいと思っても、もう声が出てきませんでした。
「パン、ポラリスであります」
虎猫が答えました。
「よろしい。パン、ポラリスを詳述せよ」
黒猫が言います。
(ああ、これは僕の仕事だ。原簿、原簿……)
かま猫は、泣き出しそうな気持ちで思いました。

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