初級翻訳・羽衣物語 第2話

小川 未明

「天女さま、こう申しますのもお恥ずかしい話ですが、私はまだ独り身なのです。もし、あなたさえ承知してくださり、私の妻になってくださるなら、あなたのためにこの命も捧げます。人間の身で天上のあなたを慕うのは、分をわきまえないことかもしれませんが、美しいものを愛する心に神も人も違いがないのなら、どうぞ私の願いを聞き入れてください」と、心を込めて訴えました。
天女は、濁りのない若者の心に感動するとともに、自分にも落ち度があったことを悟りました。
こんなことになったのも、自分の軽率な行動のせいでした。うかうかと地上へ降りさえしなければ、何事もなかったはずだと後悔したのです。

三

 富士山は紫色をおび、ゆったりと長く裾を引いていました。
その広い裾野のふちを、青黒い色の海がうねりを上げ、もやのかかる松林や白い砂の浜辺は、まるで織り込まれた模様のように美しく見えたので、さすがの天女も、しばらくは自分を忘れて見とれずにはいられませんでした。
天女は、それがわざわいを招くことになるとも知らず、袂をひるがえすと、まるで孔雀が舞うように、人のいないのを幸いにして松原へ降り立ったのでした。
しめった土のさわやかさ、水晶を砕いたような海の水。天女は心ゆくまでそれと親しもうと、足にまとわりつく羽衣を脱いで松の枝にかけ、裸足のまま渚の方へ走っていきました。
そして、冷たい水に足を浸しながら、ささやき合う寄せては返す波を相手に戯れ、いつしか時が経つのを忘れていたのでした。
そのうち、東の空がほんのりと赤く色づきました。
それを見て天女は、朝日が昇る前に天へ帰らなければならないと気づき、羽衣を取るために松原へ引き返しました。
ところが、その大事な羽衣は、いつのまにか人間の手に入っていたのでした。このとき、若者は、
「これほどお願いしても、まだ何もおっしゃってくださらないのは、私の心があなたに伝わっていないからでしょうか」
と、悲しそうに言いました。
これを聞くと天女は、
「いいえ、どうしてそんなことがございましょう。天と地とで住む世界は違っても、情けの心に変わりはなく、善いことや悪いこと、喜びや悲しみといったものも、私たちと変わりはないのですから」
と、答えたのでした。
「それなら、なぜ私の願いを聞いてはくださらないのですか」
と、若者は、いきいきとした瞳を天女に向けました。
天女はためらいながら、
「空に住む私は、地上の暮らしというものを全く知らないのです」
と答えました。
「先ほど、情けの心に変わりはないとおっしゃったではありませんか」
「そう申しましたのは、あなたの誠実な心がよく分かり、うれしく思ったからです。そう思えばこそ、なおさらあなたを幸せにしなければならないと思うのです。全く地上の暮らしを知らない私に、どうしてあなたを幸せにすることなどできましょうか」
「いいえ、ただ一緒にいてくださるだけで、私はそれで満足なのです。また、それがどれだけ私を力づけるか分かりません。私は山へ行って薪をとり、海へ出て魚をとってきます。少しもあなたに不自由な思いはさせません」
と、若者はあくまで自分の思いを通そうとしました。
あわれな天女は、悩みに耐えかねてか、顔には花のような血の気が失せ、青白く、急に姿がやつれて見えました。
これを見ると、若者は天女を痛々しく感じたのでした。そして、なんとなくじっとしていられなくなりました。
「天女さま、私が悪うございました。勝手なことを言って、あなたを苦しめて申し訳ありません。どうか、お許しください」
と、頭を低く下げました。
すると天女は顔を上げて、
「人間は人間としてのつとめを果たすからこそ、尊いのです。もし誰であってもその道をあやまるなら、どんな不幸が起こらないとも限りません。ですから、早く私を空へ帰してください」
と、目に涙を浮かべて言いました。
若者は、天女のどこまでも優しく、正しい心に感心しました。そして、自分が悪かったことを悟ると、こうして立っていることさえ、なんとなく気恥ずかしくなったのです。
「あなたは天にいらして、普段は何をなさっているのですか」
と、若者は聞きました。
「私は神さまにお仕えしています。雲の上で、五色の機を織ります。また、神さまのお使いとして、ときどき星の世界から星の世界へと飛び回ることもあります」
と、天女は答えました。
若者は丁寧に羽衣を天女の前へ差し出しながら、
「どうぞ、これをお受け取りください。ついては、こんなお願いをするのも誠に厚かましい話ですが、せっかくのお名残に、せめていつまでも、美しく正しいあなたにお目にかかった思い出となるような、何か印をいただけないでしょうか。かなわぬ願いでしょうか」
と言いました。
すると天女は言いました。
「私が持っているものはすべて、この羽衣のように虹や霞を織って作ったものばかりですから、人間の手に渡れば、いつまでも形として残ることはありません。下界に吹き荒れる嵐や雨にさらされれば、たちまち破れてしまうでしょう。しかし、あなたのような正直な方には、私がお与えしたものはいつまでも心の中に残り、あなたの一生を楽しく過ごさせる力となるはずです」
「まあ、それはどんな尊い品なのですか」
「いいえ、形のあるものではありません。先ほども申しましたように、形あるものはいつか破れ、崩れてしまうものです。形がなくなっても心に残るものこそ、いつまでも壊れることのない宝なのです」
「では、その宝とは?」
「人間の考えでは絵にすら描けない、天女の舞をご覧に入れたいと思います」
こう聞くと、若者の顔は急にはればれとして、にっこりと笑い、
「見た者はこの世の心配や老いを忘れると昔話に聞いたが、まだ誰も見たと聞いたことのない天女の舞ですね。それはありがたい」
と言いました。
このとき、たちまちどこからともなく笛の音が起こり、それと響き合うように太鼓の音が聞こえてきました。若者は思わず首を巡らせ、その美しい音色にうっとりと聞き惚れました。
見れば、もう天女の姿は空へと浮かんでいました。
若者が、「あれよ!」と叫んだその時でした。あっという間に、天女の長い袖がひらりと翻り、若者の頭上へと垂れ下がってきました。その端を思わず手でつかめそうなところまで近づいたかと思うと、再び、巻き上がる雲のように高く離れていきました。音楽も急テンポで弾むように鳴り響き、それに合わせて天女はしばらくの間、激しく舞い踊りました。しかし、いつしか天女の姿は次第に高く、高く昇っていき、やがて遠く小さくなって、ついに霞の奥深くへと消え去ってしまったのです。

いつの間にか美しい音楽の音もやみ、ただ、そよそよと吹く朝風の中に、音楽の余韻がいつまでも漂っているようでした。

浜辺の砂の上にじっと座り込んでいた若者は、ようやく夢から覚めたように立ち上がり、あたりを見回しました。しかし、もうどこにも天女の姿はなく、羽衣の影さえ見当たりませんでした。

そこには、広々とした海原と、青々とした松林、そしていつもと変わらずにそびえる富士山があるばかりでした。

若者はその後、長い一生を正しく、そして楽しく送ることができました。

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