初級翻訳・肉屋に化けた人鬼 第8話

牧 逸馬

もう一人の兄は、幼い女の子に暴行を働いて、長い間刑務所に入っていました。フリッツが少年期を迎える頃、3人の姉は全員が売春婦となっていました。こうした家庭環境が、彼の生涯に致命的で暗い影を投げかけたことは言うまでもありません。

幼少の頃から、周囲の目を引くほど、将来が恐ろしい不良少年でした。その趣味や行状は、どうしても男の子とは思えませんでした。まるで女の子のようだったのです。15歳で小学校を卒業すると、すぐにノイ・ブライザッハの下士官養成所に入り、その後、軍隊に編入されました。

しかし、1年も経たないうちに、激しいてんかんの発作に襲われるようになりました。これが本物のてんかんだったのかどうかは非常に怪しいところですが、本人は「日射病が悪化したものだ」と言い張り、陸軍病院へ送られ、間もなく除隊となりました。ハアルマンの男色癖は、生まれつきの異常性がこの兵営生活中に目覚め、昂進したものだと言われています。

ハノーファー市に帰ってくると、父親は街灯点火人の仕事も市役所の小使いの仕事もやめて、小規模な葉巻製造業を始めていたため、フリッツもそこで働くことになりました。しかし、落ち着くとすぐに軍隊で覚えた変態的な癖が再発し、空き地などで近所の子供たちに対する彼の行動が注目を集めるようになり、異常者として郊外のライン川畔にある市立精神病院へ送られました。

ところが、6ヶ月で病院を脱走し、スイスへと潜入しました。そして、しばらくは何事もなく働いていました。最初は短艇の舟大工、後には薬局に勤めて小金を貯めました。2年後にハノーファーへ戻ってきました。この時、彼は名前も知らない女性と恋に落ちて結婚したのですが、その女性が妊娠するとすぐに捨ててしまい、こっそりと国境警備の連隊に入隊してアルザスへ渡り、士官の従卒として3年間を過ごしました。神経衰弱と称して除隊になりましたが、隊内での評判はなかなか良く、退役時には善行章をもらい、わずかな恩給までつくほどでした。そうして四度目にハノーファーへ帰ってきたのですが、元々父親とは反りが合わず、一緒に生活してはいつも喧嘩ばかりしていました。
もっとも、大酒飲みのおやじの目から見てもフリッツの素行はひどいもので、この時もフリッツは盛んに子供を襲い、家族は迷惑し続けていました。
とうとう我慢しきれなくなった父親が警察へ訴え出たため、フリッツは再び精神鑑定を受けることになりました。脳の専門医と神経系統の医師、二人がフリッツだけでなくハアルマン一家を詳しく調べた結果、「フリッツの両親ともに道徳的な責任感は人並み以下だが、だからといってフリッツ・ハアルマンが精神病者であると直ちに断言はできない」という結論が出ました。
言い換えれば、精神病ではないということになり、1904年の夏、釈放されたのです。
それからちょうど20年後の同じ頃に、彼は死刑執行人の手にかけられる運命が待っていたのでした。
連続殺人犯は、本格的な殺人を始める前に、多くの場合窃盗や詐欺など、数々の前科を重ねてくるものだと言われていますが、ハアルマンもまさにその通りでした。
実際、その後の数年間、彼は監獄へ入ったり出たりを繰り返しました。
罪の内容は様々で、強盗、窃盗、少年へのわいせつ行為、スリ、詐欺などでした。その間も父親は、なんとか息子にまともな仕事を与えようと、一度は自分と同じ葉巻製造を、次には魚の天ぷらの屋台のようなものを出させてみましたが、どれも失敗に終わりました。
そのうちに生活はますます荒れ、裏街に隠れ住んで常習的な犯罪者たちと付き合うようになったため、父親のグスタフも母のヴェルナも呆れ果て、それ以降はすっぱりと縁を切ることにしました。
その頃フリッツは、ライン川岸の倉庫で荷作りの仕事をしていましたが、かなりの額の在庫品を盗んだことがバレて、5年の懲役刑を言い渡されました。
これが1914年のことで、つまりハアルマンは、あの第一次世界大戦の期間をのんびりと刑務所で過ごしたのです。
1918年に出獄してみると、世の中は一変しており、ザクセン州は戦後の飢饉に苦しんでいました。
古い社会制度はドイツ帝国と共に崩れ去り、新しい体制は生まれようとしているものの、まだしっかりと固まってはいません。
この混乱の最中、警察がまったく怖くないことを、ハアルマンは一目で見抜きました。
ツェラルストラッセに肉屋を開き、公設市場からくすねてきた肉や、あの停車場から盗んできた「肉」を売り出し、物資が足りない時代もあって、小さな店ながら素晴らしく儲けを上げたのは、それから間もなくのことでした。
裁判は1924年7月30日から、ハノーファー市のザクセン州裁判所で開かれました。
この頃にはすでに、前述したような動かしようのない証拠が次々と集まっており、ハアルマンは比較的あっさりと事実を認めました。
出獄したばかりのハンス・グランスも、共犯または助犯として逮捕されていました。
法廷でのハアルマンは、概して冷然としており、興味のない顔で周囲の人々を見回していました。
何かグランスと自分の証言が食い違い、自分が不利な立場に置かれると、彼は時折その尊大な態度を忘れ、甲高い声で喚いたり罵ったりしました。
グランスはわざとらしく無関心を装い、ハアルマンの方を見ようともしませんでした。
しかし不思議なことに、人気はどちらかと言えばハアルマンの方にありました。
ゲッティンゲン精神病院のシュワルツ博士と、ハノーファー大学のシャックウイッツ博士が改めて二人の精神鑑定を行いましたが、結果は「異常なし」で、二人とも普通の人と同じく立派に責任能力を持っていることが判明しました。
弁護士の唯一の頼みの綱もこれで崩れ、グランスには終身刑、ハアルマンには死刑の宣告が下されました。
死刑になる前、ハアルマンは長文の告白文を書きましたが、それは悔い改めや救いを求めるような、この手のケースによくある宗教的なセンチメンタリズムを帯びたものではありませんでした。
それどころか、ただ殺すことだけに喜びを感じるという、その快楽を強調した内容だったのです。
フリッツ・ハアルマンも人並みに死ぬことは嫌がりましたが、それは「死んでしまえば、もう少年を犯すことも、その肉を食べたり売ったりすることもできなくなるから」という理由で、死を呪ったのでしょう。
記録に28名の少年を殺したと書かれていることに対し、彼は大いに不服そうでした。
「自分でもはっきりとは分からないが、48人までは記憶している」と言い放ち、彼は犠牲者の数が実際より少ないことにひどく引け目を感じている様子でした。
絞首台に立っても、そのことばかりをぶつぶつと呟いていたのです。
実に、どこまでも人間を喰った男でした。

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