初級翻訳・透明怪人 第12話

江戸川 乱歩

黒いズボンが何かに持ちあげられるように地面からスルスルとあがってグニャグニャ動いていたかと思うと、ひとりでシャンと立ったのです。
つまり、ちょうど人間がズボンをはいたようなかたちに、二本の足で立っているのです。
立っているばかりではありません。
それがあちこちとあるきだしたのです。
青年はまたしてもギャッとさけびそうになりました。
しかし、もし声をたてたらどんなおそろしいめにあうかもしれないと思ったので、やっとのことで声をおさえました。
あぶらあせをながしながらなおも見ていますと、今度は白いシャツがヒラヒラとちゅうにまいあがり、モゴモゴ動いているうちに、まるで人間がシャツを着たようなかたちになりました。それから、つぎには、白いワイシャツがヒラヒラとして、また、人間が着たかたちになりました。
つまり、目に見えない人間が、ズボンをはき、シャツを着、ワイシャツを着たという、感じなのです。
ルンペン青年は、キツネにでも、化かされているのではないか、それとも、おそろしい夢でも見ているのではないかと、思いました。
そうでなければ、こんなへんてこなことが、おこるはずがないからです。
目に見えないやつは、それから、上着をき、クツをはき、手ぶくろをはめました。
すっかり洋服紳士になりすましたのです。
しかし、たったひとつ、ないものがあります。
首がないのです。
「みなさん、肩から上に何もない人間、首のない人間を見たことがありますか。
ぼくも生まれてから、はじめて見たのですが、そりゃあ、へんなものですよ。」
青年は中村係長たちにむかって、さもおそろしそうに、そんなことを言いました。
ところが、そのつぎには、もっともっと、へんなことが、おこったのです。
地面に人間の首だけが、ころがっていたことは、さっきも言ったとおりですが、首のない洋服男は、身をかがめて、その地面の首をひろったのです。
両手が青白い首を持ちあげたのです。
「アラッ、おちていたのは、この人の首だったのか。」と、青年が、へんなことを考えているうちに、首なし男は、両手に持った首を、スーッと上にあげて、じぶんの肩の上に、チョコンと、のせました。
すると、ふしぎなことに、首はそこにくっついたまま、はなれなくなったではありませんか。
首なし男に首がついたのです。
もうりっぱな一人まえの人間です。
青年は夢に夢みるここちで、いけがきのそとに、うずくまったまま、身うごきもできないでいましたが、すると、首のついた洋服紳士は、オーバーを着、ソフト帽をかぶって、いきなり、こっちへ、ちかづいてきました。
青年はもう、生きたそらもありません。
小さくなって、ブルブルふるえているばかりです。
しかし、その怪物は、青年に近づいたのではありません。
いけがきのうちがわに立ちどまって、あちこちと見まわしていましたが、すぐ近くに、いけがきのやぶれた個所をみつけると、バリバリと音をさせて、そこから、そとへ出てきました。
そして、もういちど、ゆっくりあたりを見まわしてから、くらい町を、むこうのほうへ、立ちさってしまいました。
青年は、うまく、みつからないで、すんだのです。
ルンペン青年が話しおわると、中村係長が、まず口をきりました。
「きみの見たなま首というのは、透明怪人の有名なろう仮面なんだよ。
首なしで町をあるくわけにはいかないから、頭からスッポリかぶるろう仮面でごまかしているのだ。」
「それは、ここにいる子どもたちに、聞きました。
ぼくは新聞を読まないので、今まで、透明怪人のことを、知らなかったのです。」
青年が、まぬけな顔で言いました。
「で、きみは、そのままじっとしていたんだね。
怪物をおっかけようともしなかったんだね。」
黒川記者が、青年をしかりつけるように、たずねます。
「ハア、あいつが、そういう悪いやつだとは、知らなかったので……。
たとえ、知っていても、ぼくには、あんなきみの悪いやつを、おっかける勇気はありません。
さけび声をたてなかったのが、やっとですよ。」
「バカだなあ。
なぜ、さけばなかったんだ。
きみがおしえてさえくれれば、こちらには、いくらも人がいたんだ。
いま東京じゅうを、さわがせている、大怪物を、きみは、とらえようと思えば、とらえられたんだぜ。
それを、まんまと、逃がしてしまうなんて……。」
「イヤ、ぼくは、勇気がなかったけれど、ひとり、あいつを、おっかけた人がありますよ。」
「エッ、なんだって、なぜ、それを早く言わないんだ。
だれだ。
だれが、あいつをおっかけたんだ。」
「子どもです。
ここにいる、ぼくをつかまえた子どもたちと、おんなじような子どもです。」
ルンペン青年は、小林少年とふたりの少年団員を、ジロジロ見ながら、なんだか腹だたしげなちょうしで、答えました。
「ぼくが、いけがきのところに、しゃがんでいると、ひとりの子どもが、懐中電灯を、ふり照らしながら通りかかりました。
そして、ぼくを見つけると、何をしているのだと聞きました。
ぼくはまだ、こわくて声もだせなかったのですが、あの首をひろった洋服紳士のすがたが、むこうのほうに見えていたので、それを指さしたのです。
すると、その子どもは、なにか、ひとりで、がてんして、懐中電灯を消すと、そのまま、洋服紳士の怪物のあとを、こっそり、つけていきました。」
「うまい。
小林君、それはきみたちの団員のひとりにちがいないぜ。
だが、ひとりっきりでは、心ぼそいな。」「とっさに連絡する時間がなかったから、とにかく後をつけたんだろうけれど、その子の身の上が心配だ。
小林君、それは誰だろう。
急いで調べてごらん!」
黒川記者は、心配でたまらないという様子で、イスから立ち上がりました。

怪人のすみか

透明怪人を、たったひとりで尾行した子どもというのは、少年探偵団の副団長で、小林団長のかた腕と言われる大友少年でした。
大友久という、中学二年生なのです。
大友君は、いけがきの外で、ルンペン青年が指さす怪人物の姿を見ると、とっさに、あれこそ透明怪人にちがいないと思いました。
後ろ姿が、みんなから聞いていた怪人の服装と、まったく同じだったからです。
こちらは体の小さい少年です。
それに、さびしい屋敷町で電灯もごく少なかったので、尾行はわりに楽でした。
島田邸から百メートルほど行った暗い街角に、一台の自動車がヘッドライトを消してとまっていました。
あやしい洋服紳士は、その自動車に近づくと、コツ、コツ、コツコツコツと、みょうな調子で自動車の外側をたたいて合図をしたうえ、ドアをひらいて後ろの席に腰しかけ、運転手に何かボソボソささやいています。
大友少年は体が軽くて、木馬や鉄棒が大とくいでした。
そのうえひじょうな冒険好きです。
この好機会をのがしてなるものかと思いました。
武者ぶるいというのでしょうか。
なんだか体がふるえて心臓がドキドキしてきました。
大友君は「よしッ!」と心の中でさけぶと、足音をしのばせて自動車の後ろに近づき、ヒョイと後部車輪のおおいのうえにとびのり、そこにたつまきだちをしてスルリと自動車の屋根の上にのぼりつきました。
目にもとまらぬ早わざです。

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