初級翻訳・鉄塔の怪人 第11話

江戸川 乱歩

あれを何だと思う?」
ずっと向こうの街角のぼんやりとした街灯の下に、何人かの人影が見えます。先頭に立っているのは小さな子どもです。その後に制服の警官が一人、二人、三人……まだまだ大勢が続いているように見えます。遠くてよくわかりませんが、先頭にいるのはどうも小林少年らしいのです。
「いけない! 子どもはほうっておいて逃げるんだ。後ろに引き返して、森の中へ入り、そこから別の町へ通り抜けるんだ。いいか、向こうの連中に気づかれないようにしろ!」
偽の明智が自動車から飛び出すと、運転手と助手も続いて、三人は風のように元来た道を走っていきました。
しばらくすると、数人の警官隊が小林少年を先頭にして、自動車のところへ駆けつけました。
「賢二君、大丈夫か!」
小林少年が窓から中をのぞき込みながら叫びました。賢二少年は小林君を見たことがありませんでしたが、味方に違いないと思い、自動車の外へ飛び出して後ろを指さしながら、「逃げたよ! 三人ともあの森の中へ逃げたよ!」と教えました。
それから二人の少年は警官たちと一緒に神社の森へたどり着きましたが、いくら探しても悪人たちの姿はもうどこにも見当たりませんでした。
しかし、賢二君のお父さんはすぐに発見され、無事に助け出すことができました。こうして小林少年の知恵によって、賢二君は救われたのです。お父さんも無事でした。悪人たちを取り逃がしてしまったとはいえ、まずは大成功と言わなければなりません。やがて麻酔薬の眠りから覚めたお父さんは、事の次第を聞いて小林少年の手柄を褒め称え、何度も何度も礼を言うのでした。

丸ビルの妖虫

しかし、鉄塔王国の怪人は、一度失敗したくらいで諦めるような奴ではありません。失敗すればするほど執念深く食らいついてくる、恐ろしい悪人なのです。
それから一週間ほど経ったある朝のことです。東京駅前の丸ビルの中で、ゾッとするような事件が起こりました。
朝の六時を少し過ぎた頃でした。まだ会社員は一人も姿を見せていません。一階の通路の両側にある商店も、一軒も店を開いていません。大きなビルの中は、まるで死んだ町のようにがらんとして静まり返っていました。その、だれもいない一階の広い通路を、お掃除係のおじいさんがほうきとバケツを持って、二階へあがる階段の下まで歩いてきました。
そして、ふと階段を見あげたかと思うと、まるで電気にしびれたみたいにピタッと立ちどまり、体が一歩も動かなくなってしまいました。
目は飛び出るほど大きく開き、口はポカンと開いて、まるで真っ青なお人形のような顔になってしまったのです。
それもそのはずです。
その階段の上には、世にもおそるべきバケツをひっくり返したような恐ろしい化け物が、うごめいていたからです。
それは、人間くらいの大きさがある、一匹のまっ黒なカブトムシでした。
そいつが、自動車のヘッドライトほどもある二つの目をランランと光らせ、するどい長いツノをふりたてて、ゴソゴソと階段をはいおりてくるではありませんか。
この大きな虫は、いかめしいたくましい体のわりに、おそろしくどんくさいやつです。
エッチラオッチラ、まるで酔っ払いのような格好で、いかにも大変そうに階段をおりてくるのです。
そうして、二段か三段はいおりたかと思うと、ズルッと足をすべらせました。
ぶきような大カブトムシは、そこで踏みとどまる力もなく、そのまま恐ろしい勢いで階段をすべり落ちてきたのです。
立ちすくんでいるおじいさんの目の前へと、サーッと落ちてきました。
「ヒャーッ……!」
おじいさんはなんともいえない奇妙な叫び声をあげて、その場にしりもちをついてしまいました。
大きなビルというものは、誰もいないように見えても、どこかに人がいるものです。
この叫び声をきいて、お掃除のおばさんだとか、泊まり込みの会社員などが、ふたり、三人、五人と、どこからか駆けつけてきました。
それらの人たちも、通路でもがいている異様な怪物をひと目見ると、やっぱり真っ青になってその場に立ちすくんでしまいました。
巨大なカブトムシは、階段から落ちた拍子に背中を下にして、あおむきになってしまったのです。
ふつうの小さなカブトムシでも、一度あおむきにひっくりかえると、なかなか自分では起き上がれないものです。
ましてやこんなに大きな体のやつですから、急には起きあがれないとみえて、みにくいお腹を丸出しにして、長い足をモガモガと動かしながら、ものすごく苦しがっているのです。
しかし、その苦しがる様子が、じつに気味の悪いくらい恐ろしいものでした。
ツルッとなめらかな背中とはちがって、グシャグシャしたお腹のほうは、なんともいえないいやらしい形をしています。
それを見ていると、ゾーッと鳥肌が立って、歯ぎしりがしたくなるほどです。
ところが、そのとき、またしても、じつに不思議なことが起こったのです。
その怪物の腹が、スーッと縦に割れてきたのです。
そして、その割れ目がだんだん広くなって、その中からなにか別の生き物がはいだしてきたではありませんか。
それは、リンゴのようにツヤツヤしたほっぺたの、ひとりの少年でした。
大カブトムシの腹の中に、人間の子どもがはいっていたのです。
それが腹をやぶって、びっくりしている人びとの目の前に、ついに姿をあらわしたのです。

小林少年の危難

「なあんだ、子どもがはいっていたのか」
ほんとうの怪物だとばかり思っていた人びとは、少年の姿を見て、すこしホッと安心しました。
少年はカブトムシの腹から外にでると、グッタリとその場に倒れてしまったので、人びとは駆けよって助け起こし、いままで少年がはいっていた巨大なカブトムシのからだをしらべました。
それは本物の虫ではなくて、うすい金属を皮でつなぎあわせて作ったもので、中はからっぽになっており、そこへ少年がはいりこんで動かしていたのです。
「なんだよ、みんなをびっくりさせるなよ。きみはどうしてこんないたずらをやったんだ。このおばけカブトムシの衣装を、いったいどこから手に入れたんだい?」
ひとりの会社員が、少年を抱き起こしながら、しかるように言いました。
少年は、さっき階段から落ちたときにどこかを打ったらしく、痛そうに顔をしかめながら答えました。
「いたずらなんかじゃありませんよ。ぼくは悪いやつのために、このカブトムシの中へとじこめられたんです」
「悪いやつだって?」
「ええ、鉄塔王国の怪人です」
それを聞くと、人びとは思わず顔を見合わせました。
鉄塔王国という不思議な怪物団のことは、新聞に大きく書きたてられていたので、だれもが知っていたからです。
「それじゃあ、夜中に銀座通りを歩いていた大カブトムシも、こんな作られたものだったのか? なかに人間がはいって動いていたのかい?」
「そうかもしれません。そうではないかもしれません。あいつらは魔法使いみたいなものですから、なにをやるか分かりませんよ」「ぼくをこんなものにいれて、ビルの中に転がしておいたのにも、なにかわけがあるはずです。カブトムシなんてただの作り物だと思わせて、みんなを油断させるためかもしれません」

「それにしても、きみはどうして、こんな目にあったんだ?」

「仕返しですよ。

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