初級翻訳・神州天馬侠 第112話

吉川 英治

秀吉の部下を五、六十騎貸し出そう」
「いえ、徳川の領地を通るのが恐ろしくて、秀吉殿の侍を借りてきたなどと言われては……」
「うむ、それは武士の名折れというものか」
「困難は、旅の道中だけではありませんから」
「そうだな。天下は暗闇に包まれている――いずれ光り輝く冠をいただく天下人は現れるだろうが、その道のりは刀が林のように立ち並ぶ地獄であり、血の流れる修羅の道だ。この秀吉の前にも、困難な険しい山々が次々とそびえ立っている」
「ましてや、幼い伊那丸がわずかな旅の苦労を恐れてどうしましょうか」
「愉快な言葉だ。秀吉もその意気込みで、北国の荒くれどもをひと煽りで蹴散らしてやろう」
「さらば」と別れを告げると、秀吉はすぐに作戦の準備に取りかかりました。伊那丸は、思いがけず手元に戻った「御旗楯無」の具足櫃を忍剣(にんけん)に背負わせ、陣の裏からレンゲ草が咲く野道へと走り出しました。
「ワーッ!」という勇ましい鬨(とき)の声が聞こえます。
手をかざして桑名の方角を見ると、早くも秀吉の先陣が再び戦雲を巻き上げて孤城を奪い返す総攻撃を開始し、後陣は渡り鳥のように隊列をなして、柴田軍を迎え撃つために引き返していく様子でした。
その戦雲をくぐり、敵味方が入り乱れる戦場を抜けて、伊那丸主従は名古屋から岡崎へと進んでいきました。
――ああ、いよいよあと十数里(約40キロ)で、徳川家康の本城がある浜松の地に入ることになります。
先に悪だくみをしていた和田呂宋兵衛(わだろそうべえ)が、今度は狡賢い家康とどのように手を組んでくるのでしょうか。
伊那丸の前には今、恐るべき死の落とし穴が何者かの手によって掘られています。
死といえば、夜の湖に漂っていた鞍馬の竹童と泣き虫の蛾次郎。あの二人の死はどうなったのでしょうか。
死というものは、どうなるものでもありません。死は絶対であり、永遠なのです。

仲直り

一

琵琶湖の中に、ひとつの島があります。
日本五大奇景のひとつに数えられている竹生島(ちくぶじま)です。
島の西側、天狗の爪と呼ばれる岩の上に、さっきからひとりの神官が立っています。手に笙(しょう)の笛を持ち、大口の袴をはき、水色の直垂(ひたたれ)を風になびかせています。
そこから手をかざして見ると、うっすらとした昼霞の向こうに、若狭の三国山、敦賀の乗鞍、北近江の山々が眉のように連なってそびえています。
そして、はるか柳ヶ瀬の奥からこの琵琶湖へ銀色の川筋を注ぐ高時川の途中に、どっしりと空に肩をそびやかしているのが賤ヶ岳(しずがたけ)の巨影であり、その背後に光る一面の鏡のような湖面は余呉(よご)の湖水と思われます。
すると、その神官の目がそこにピタリと吸い付いてしばらく動かなくなりました。見ているうちに、賤ヶ岳から柳ヶ瀬にかけての方向に、モクモクと黄色い煙が上がりました。
見る間にそれが合図となり、続いて大岩山、木之本付近、岩崎山の砦と思われる場所から山火事のような黒煙が渦を巻き、太陽の光を遮りました。
と思うと、余呉の湖水や琵琶湖も、銀色の艶を失い、鉛のような鈍い色に変わっていきました。
「ああ、敗れた!」
神官は、笙のような悲しい声で叫びました。
「賤ヶ岳の砦も落ちた――柳ヶ瀬の陣も総崩れだ――柴田勢はとうとう秀吉の手によって滅ぼされる運命と決まったのだ……」
いかにも悲痛な表情を浮かべました。神官の瞳には、かすかな涙さえ光っています。
そして、滅びゆく国の煙を弔うかのように、祈るような手つきで笙を捧げ、静かにその歌口へ唇をあてました。
雄大な音色、悲しみの叫び、あるいはさわやかに転調する笙の余韻が、志賀のさざ波へと微かに、そして妙なる響きとなって溶け込んでいきました。
「宮内(くない)さま、――菊村さま!」
すると、その笙の音を頼りにして、岩だらけの島の根元を漕ぎ回ってくる小船がありました。
呼ぶ声、櫓(ろ)を漕ぐ音。
船の中にはひとりの若い漁師が櫓を握り、屏風のような絶壁を見上げてやって来ます。
「おう、源五か」
天狗の爪から身を乗り出して答えたその神官こそ、菊村宮内(きくむらくない)でした。
松の枝に手を添えて、波打ち際を見下ろしたのです。「宮内さま、お頼みを受けまして、すっかり陸の様子を見てまいりました」
「ご苦労、ご苦労。さきほどから、その返事を聞きたくて待ちかねていたところだ。戦の結果はどうであった」
「伊勢の陣から引き返した秀吉勢は、恐ろしい勢いで、なりふり構わず北国街道を進み、堂木山に本陣を置いて、柴田勢を追い散らし、北ノ庄まで駆け進んでいくというありさまです」
「うーむ、そうか。北国一の荒武者といわれた佐久間盛政も、それを食い止めることはできなかったか……」
「佐久間勢も一度は秀吉方の中川清兵衛を破ったそうですが、丹羽長秀が不意に加勢についたため、勝敗は逆転し、北国勢は何千もの死骸を山や谷へ捨てたまま、越前へなだれ込んで退いたという噂です。この調子では、やがて北ノ庄の柴田勝家も、近いうちには秀吉の軍門に下るか、でなければ生首を塩漬けにされて凱旋の土産にされてしまうだろうと、もっぱら評判になっております」
「おう、わかった――北国勢が敗れたであろうことは、ここから眺めていてもおよそ見当がついていた。源五、ご苦労だった。また用があったら笙を吹くから……」
力なくそう言うと、神官の菊村宮内は、天狗の爪から滑り落ちるように、よろよろと島の中へ姿を隠してしまいました。
島にはつつじ、山吹、連翹(れんぎょう)、糸桜と、春の万花が爛漫と咲き誇り、一面に広がる背の低い植物や落葉松の間を色鮮やかに彩っています。宮内は、その美しい自然にも目もくれず、しおしおと細道をたどっていきました。
彼が歩くと、その直垂(ひたたれ)の袖をかすめて、真っ黄色なカナリアがツウッと飛び去りました。
すると、その向こうには、神々しい弁天堂の建物が見えてきました。あたりには、宇賀の御社、観音堂、多聞堂、月天堂などの屋根が、木々の葉の中に浮かぶように見えています。
「宮内さま、もうお昼でございます」
社の内から走り出してきた巫女の少女が、彼の姿を見るとこう告げました。
だが、宮内は憂鬱な顔をうつむけたまま、「うむ、お昼か。やめよう、今日はなんだか食べたくない」とかぶりを振りました。
小さな巫女はそれを追いかけて、「ですけれど、あの『可愛御堂(かわいみどう)』の中にいるお方へは、いつものようにお粥を作っておけとおっしゃったので、もうできておりますが」と言いました。
「お、忘れていた。自分の心が乱れていたので、ついそのことを忘れていた。さぞかしお腹が空いているだろう」
「じゃあ、いつもの通り、あそこへ運んでまいりましょうか」
「あ、両方へ同じようにな」
宮内は急ぎ足になって、境内の一角にある六角堂へと向かっていきました。
六面ある入り口には、それぞれ木連格子(もくれんごうし)がはまっています。その一方の錠を開けて、宮内はやさしい声をかけました。
薄暗い御堂の中には、布団をかぶって寝ている少年の姿があります。
――ふと見ると、それは泣き虫の蛾次郎でした。

二

「どうだい、蛾次郎さん」
と宮内はそこへしゃがみ込み、体の具合を聞き始めました。

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