初級翻訳・神州天馬侠 第176話

吉川 英治

――とすれば、同時に遠矢の勝敗も歴然と分明いたすことになる」

二

名案でした。
それはよかろうということで、すぐさま紛糾は解決しましたが、ここにまた番組変更のやむなき事態が起きました。そこへ徳川家の侍が飛んできて、
「例の老女修道者でございますが、たった今、何者かにしたたか腰を打たれて熱を発し、ひどくうめいておりますので、吹針の試合には出られぬ様子でござります」
という急報を伝えたのです。
忍剣は陰で、それを面白く聞いていました。
石見守の腹では、吹針の試合ではしょせんあの老女に勝ち目はないと考えていたので、この出来事はもっけの幸いでした。
そこで試合を取り消すことを申し出たため、龍太郎や忍剣も片隅で相談のうえ、改めて彼にこう返答を与えました。
「――されば、幻術試合の相手に出る竹童も、今日は少し気分の優れぬ様子であるから、いっそ二番の勝負を取り消して、最終の遠駆試合一番にて、約束通り咲耶子をお渡しあるか否か、乾坤一擲の勝負を決めるならば、それにご同意いたしても差し支えはござらん」
「なるほど」
石見守は考え込みました。ところが、徳川家の者たちは、それを聞くと、むしろ好都合だとばかりに気勢をあげて、
「遠駆けの第一試合で勝敗を決めることは、当方も望むところ。確かに承知した。
さらば、そちらもすぐにお支度を」
と、石見守になにやらささやいて、わいわいと引き揚げていきました。
彼らの目算では、この一番こそ、疑うまでもなく勝てる勝負だと信じ込んでいるのです。
天下を歩むことにかけて、誰か、早足の燕作にまさる人間がいるはずはありません。
そう信じているからこそ、最初に示した試合の掟にも、相手方は騎乗でも徒歩でも勝手しだいだと豪語したのです。
この険しい山道の遠駆けに、馬を選ぶとは愚かなこと。
人間の足より難儀に決まっているのです。そうかといって、徒歩ならばおそらく我が早足の燕作に追いつける足の持ち主などいないはず。
――という腹が、徳川方の作戦でした。
(どう出るか、相手方のやつは?)
徳川方は半ば安心しきって、興味津々で待ち構えていました。すると、すでに支度ができていたのか、遠駆けに選ばれた巽小文治が、朱柄の槍を山県蔦之助の手に預けて、
「どうッ、どうッ」
と、一頭の白馬を引いて、試合場へ現れました。
なんと毛並みの美しい馬だろうと、居並ぶ人々は一瞬目を奪われましたが、よく見るとこれは名馬に違いありません。御岳神社の御厩に飼われている「草薙」と呼ぶ神馬でした。
しかし、徳川家の者や諸藩の連中は、この険しい道の遠駆けに馬を引き出してきた無知を笑いました。
「どうだい」
と、嘲笑半分に噂する者たちがいます。
「これから御岳の中腹まで降りて、渓谷を渡り、それから白鳥の峰の大鳥居まで行って帰ってくるという遠駆けに、いくら名馬の手綱を取ったところで、しょせんどうにもなりゃしまい」
「まるで、山を舟で越えようというのと同じ無謀な沙汰だ」
「しかし、あいつ、おそろしく自信のあるような顔をしているな」
「風体も変わっている。杣人か、野武士か、百姓か、見当もつかぬような青二才だ」
「なにしろ、どう負けるか、その負けっぷりを見てやろうじゃないか」
小文治の耳にも、こんな悪評がちらちらと入らぬでもありません。
けれど、彼は黙って微笑んでいます。
薄ら笑いを浮かべると、その頬には小さなえくぼができて、愛らしい若者の顔立ちでした。

三

一方、これまたおそろしく雲の上でも飛びそうな姿で出てきたのは、早足の燕作です。
「やあ、ご苦労さま」
小文治の姿を見ると、町人らしく腰を曲げて挨拶をしました。
ちょっと今までの試合とは目先が変わったので、見物人たちは喜びました。
大きな野次が、高い木の上から張り上げられています。
「お役人さま、念のために、よくうかがっておきますがね」
と、燕作はよくしゃべります。
「なんでござんしょうか――この遠駆けの勝負の眼目は、つまり、あの白鳥の峰の大鳥居まで行って、さっきの遠矢を一本ずつ持ってくりゃあいいんですね」
「そうじゃ」
と、試合目付が双方へ詳しく説明しました。
「――それと、先ほど勝負預けとなっている遠矢の当たりの証拠を持ち帰ってもらいたい」
「ようがす。じゃああっしは、あの額の縁を引っ剥がして持ってくりゃいいんだ。
そして、相手方より一足でも早くこの試合場へ持ってきて、それを検証の床几のお方に手渡しすりゃあ勝ちというわけなんでございましょう。
……なーんだ、造作もねえ。それなら途中でさんざん煙草を吸って帰ってこられまさあ」
と、浮ついた調子の町人言葉で、おそろしく大言を吐きました。
小文治はそれを空耳で聞きながら、一掴みの草をとって馬に食べさせ、ニコニコと笑っていました。
「旦那、支度はまだですか」
燕作の足は、もうやたらにピクピクと動いています。
「おお、よいぞ」
と言うと、巽小文治はひらりと神馬草薙の鞍壺に軽く飛び乗りました。
「待った!」
と、目付の人々は慌ててそこから合図の手を上げると、ドーンと三流れの太鼓が鳴り響きます。
なお、「いざ!」という合図はまだです。
太鼓は、三色の母衣武者が試合場の左右から正面へ向かって駆け出す合図でした。
そこには矢来と二重に結い回された柵があります。
柵の周囲の群衆を追い払うと、そこにある広い城戸が八文字に開いて、御岳山道の正面の道が、試合場からずっと突き抜けに口を開いた形になりました。
――刻限は、すでに七刻(午後四時)ごろの日の傾き。
満山のもみじに、静かな午後の光が少しばかり紅を濃くしてきました。
おりしも、短笛の音が響きます。
ここに、最後の勝敗を決する、騎馬徒歩、遠駆けの試合の合図がかけられました。
わーっと言う歓声に送られて、正面の城戸を走り出した白馬草薙と、天下無類の早足の持ち主は、もう御岳の広前から真っ逆さまに、その姿を見えなくしてしまいました。神は欺くべからず

一

 いくら天下の早足だと自慢する燕作でも、乗り手が巽小文治で、馬が名馬「御岳の草薙」となれば、足比べをしたところで勝てるはずがなく、勝とうと考えるのは厚かましい願いだ――と見物人たちは、最初からこの早駆け勝負の結果を低く見ていましたが、果たしてその予想は外れませんでした。
 試合場の城戸から、「八町参道」と呼ばれる広い平坦な坂を駆け下りていくうちに、燕作の小さな体は見る間に追い越され、比較にならないほど大きな差が開いてしまいました。
 しかし、燕作の腹には立派な勝算がありました。
「見ていてくれ、本当の勝負はこれからだ」
 と、たかをくくっているのです。
 八町参道をあっという間に駆け下りると、道は二手に分かれ、一方はふもとへ、もう一方は白鳥越えの甲州裏街道へと続いています。その裏街道の方へ、先の小文治が勢いよく曲がりました。
「ふふん……」と燕作はそれを見てあとから駆け出し、「さあ、旦那さんが泡を吹くのはこれからだぞ。燕作さまは、このへんで十分一息入れていくとしようか」
 腰の手ぬぐいを取って風車のように回しながら、一汗拭いて、またもやあとから駆け出しました。

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