うまい具合にいけば、大人たちが「ほらよ」と言って、煮えた里芋やこんにゃくの一片を子供たちにくれることがあるのです。
それに、まんざら鹿の仔に対して興味がないわけでもありませんでした。棒切れで突っついてみたら、どんな悲鳴を上げるだろうか、とも思っていました。
しばらく四人は、鹿の仔のまわりに立って眺めていました。
栄蔵はそれが可愛くてたまりませんでした。小さな鼻の先が黒く濡れているのも可愛かった。短い尻尾が、やせたお尻の上にペロリと垂れているのも可愛かった。細い首をゆるやかに伸ばして、土の匂いを嗅いだりしているのも可愛かった。
いつまで見ていても、栄蔵には可愛く思われました。
しかし他の三人は、ただ見ているだけではつまらなくなってきました。
「これ、何を食べるんだろう」
と、金ちゃんがまず言いました。
そして焚き火の中から松葉を拾ってきて、「ほらよ」と鹿の仔の鼻先に差し出しました。
鹿の仔は松葉の匂いを嗅ぎましたが、食べようとはしませんでした。
すると金ちゃんは怒って、ピシャリと松葉を鹿の仔の顔に投げつけました。
鹿の仔は驚いて向こうへ逃げようとしましたが、首の縄が柿の木につながれているので逃げられません。
栄蔵は、なんてひどいことをするんだと思い、金ちゃんをにらみつけました。うすのろの豊ちゃんは、金ちゃんよりももっといけなかった。
鹿の仔が逃げようとして逃げられないのを見ると、豊ちゃんは喜んで「わァい」と叫んだ。
それから「わァい、わァい」と続けざまに喚きながら、あっちこっちと追い回した。
豊ちゃんは、栄蔵より三つか四つ年上で、体も大きく力も強かったので、栄蔵はどうすることもできなかった。
はらはらして見ていたが、たまらなくなって、井戸端でお皿を洗っている松さんのところへ、助けを求めに行った。
「ほい、そうかな」
と松さんは大げさに言って、酔いで赤らんだ顔を向けてそちらを見た。
そして「豊助。栄坊ちゃんの大事な鹿にわるさするんじゃないぞォ」とどら声をあげた。
豊ちゃんは、恥ずかしそうな顔をしてやめてしまったので、栄蔵はほっとした。
そして大人の松さんを頼もしく思った。
その松さんが、まもなく栄蔵をもっと喜ばせてくれた。
松さんはこう言ったのである。
「栄坊ちゃんが、そんなに鹿の仔が好きなら、持たせてあげようかね」
そして縄を柿の木から解いて、その端を栄蔵の手に握らせてくれた。
栄蔵はおずおずと縄の端を持っていた。
鹿の仔が安心しきったように、逃げようともしないのが無性に嬉しかった。
「鹿は栄坊ちゃんが好きだと見えるな。そういえば、栄坊ちゃんもどこか鹿に似てますな」
と松さんはお世辞を言った。
お世辞でも栄蔵はそれが嬉しかった。
「そいじゃ、海の方へいきましょう。栄坊ちゃん、引っ張っておいでや」
どういうわけで海の方へ行くのか、栄蔵は知らなかった。
ただ鹿の仔が従順についてくるのが可愛らしかったので、ふりかえりふりかえり、石に躓いたりしながら、すぐ近くの海の汀(みぎわ)へ下りていった。
金ちゃんと勝ちゃんと豊ちゃんもついてきた。
この子たちはこれからどういうことがあるか、もう知っていた。
松さんが隠して持ってきた斧を、薪を割ろうとするように振り上げたときには、栄蔵はまだ、松さんが何をするつもりなのか解らなかった。
だが次の瞬間には、足元の白く乾いた砂の上に、襟巻のようなものが、放り出されていた。
それが鹿の仔であった。
額に血がにじんでいた。
金ちゃんたちは、
「おうォ」
と感嘆の声を漏らした。
「よっこらしょっと」
日頃の剽軽(ひょうきん)さで松さんは、仔鹿の頭のところにしゃがみこんだ。
仔鹿は、かぐろく潤んだ眼を、無心にぱっちりと開いていた。
ざざァと寄せてきて、またざざァと帰っていく、ゆるやかな波の音を、耳をすまして聞いているように見えた。
栄蔵は、自分の眼の下のところが、ひきつるような気がした。
手足がわなわなと震えていた。
これは一体どういうことなのか、よく解らなかった。
光がいっぱいあるのに、暗くなってきたように感じられた。
歯がカチカチ鳴った。
突然、みんなの傍から鳥でも飛び立ったようだった。
見ると栄蔵が、へんてこな走り方で、めちゃくちゃにあちらへ走っていくのであった。
「栄坊ちゃん、どこへ行くんだ」
と松さんが呼んだ。
しかし栄蔵は、向こうの方でお母さんが呼んででもいるかのように、ふり向きもせず走っていった。
しかも、お母さんも誰もいない、はてしなく続いている汀を、西の方に向かって。
灯をともす時分になって、半里ばかり西の方に住んでいる漁師が、栄蔵をつれてきた。
「海っ端の砂の上に寝ころがって、おお、おおと泣いとりました。家はどこだと訊くと、あっちだ出雲崎だと指さすんですが、どうしてこんなところへ来たかと訊いても、何とも返答しません。暗くならないうちに家へ帰れと言っても、おお、おおと泣いておるばかりですから、つれてきました。履物もどこで脱ぎ捨てたんだか、裸足でした」
そう言って漁師は、お礼に出された一杯のお酒と仔鹿の肉をいただくと帰っていった。
栄蔵は、お母さんに抱かれるようにして、お客さんたちのいない部屋につれていかれた。
まるで魂を抜かれた人間のようで、栄蔵はうつろな眼をしていた。
二、三日前に着せ替えてもらったよい着物は、潮と汗でぐっしょり濡れ、縫い目にはいっぱい砂が入っていた。
ほそっこい白い足は、貝殻や小石の角で切られたのか、傷だらけであった。
お母さんは驚きと悲しみでおろおろした。
「栄坊ちゃん、お前はどうしたの」
栄蔵は、うつろな眼でお母さんの眼をじっと見ていて、どこかがひどく痛むように、顔をゆがめるばかりだった。
本当に栄蔵の心は痛んでいた。
栄蔵はしみじみ悲しかった。
何ということがこの世にはあるのだろう。
何という無残なことを人間はするものなのだろう。
……
嵐のような苦しみが、栄蔵の心を過ぎていったあとだったけれど、さらにまた繰り返し繰り返し心は痛んだ。
やがてお日待の人々は帰っていって、家中の者が寝てしまった。夜は深まっていきます。
うとうとと眠りかけていたお母さんは、しくしくと鼻をすする音に、また目をさまされました。
「栄坊、お前は泣いているのね」
「…………」
波の音が聞こえるばかりで、あたりはしんと静まり返っているのに、それでも栄蔵はしくしくと泣き続けています。
お母さんは、枕元の行灯(あんどん)の火を大きくしました。
部屋の中が明るくなりました。
栄蔵は目をこすりながら、体を起こして布団の上に座りました。小さい膝をきちんと揃えて。
「お母さんに言っておごらん。お母さんになら、何でも言えるでしょう?」
栄蔵は目をしばたたかせて、言おうか言うまいか迷っていました。
そして、
「母ちゃん、鹿の仔を殺したんだ」
と一言いうと、布団の上に木のように倒れ込み、布団の端を噛んで泣き声を抑えました。
お母さんは、長い間、行灯の光に照らされて波打つ栄蔵の肩を見つめていましたが、やがて栄蔵の体を抱き起こしました。
そして、涙に疲れた栄蔵の目の、奥の奥にある深い色を見たとき、栄蔵の本当の悲しみが、お母さんにも分かりました。
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