初級翻訳・花物語 第3話

寺田 寅彦

蟻が二、三匹たかっています。
俊坊が急に泣き出したのでのぞいてみると、蚊帳の中に座って手足を投げ出し、泣いていました。
勝手から妻が飛んできます。
坊は牛乳のびんを、投げ出した膝の上で抱え込み、乳首から息もつかずにゴクゴクと飲みます。
涙でくしゃくしゃになった目で、両親の顔を交互にながめながら飲んでいます。
飲み終わると、また思い出したように泣き出しました。
まだ寝ぼけているようです。
妻は俊坊をおぶって縁側に立ちました。
「芭蕉の花よ、坊や、芭蕉の花が咲きましたよ。ほら、大きな花でしょう。実がなりますよ、あの実は食べられないかしら」
坊は泣きやんで、芭蕉の花を指さして「モモ、モモ」と言います。
「バショウは花が咲くと、それきり枯れてしまうってお父様、本当?」
「そうだよ。だが人間は、花が咲かなくても死んでしまうね」と言ったら、妻は「まあ」と言ったきり、背中を揺すぶっています。
坊がまねをして「まあ」と言いました。
二人で笑ったら、坊もいっしょに笑いました。
そしてまた芭蕉の花を指さして「モモ、モモ」と言いました。

六 野ばら

 夏の山路を旅した時のことです。
峠を越してから、急に風が止んで蒸し暑くなりました。
狭い谷間に沿って、段々に並んだ田んぼの縁を縫う小道には、トンボの羽がぎらぎらと光り、時々ヘビが行く手から這い出してきます。
谷をおおう黒ずんだ青空には、時折白い雲が通り過ぎますが、それはただ、あちこちの峰に藍色の影を引いて通り過ぎるだけです。
喉が渇いてたまりません。
道端の田んぼの縁に小さな溝が流れていますが、金気を帯びた水面は、青い膜を張って鈍い光を照り返しています。歩いていると、茂みの奥から道を横切って田んぼへ流れ落ちる細い清水を見つけたときは、理由もなく嬉しくなりました。
すぐさま履いていた草鞋(わらじ)のまま足を浸すと、その冷たさが身にしみました。
道の脇へ少し分け入ると、そこだけは特別に樫(かし)や楢(なら)の木がこんもりと黒く茂っています。
苔はしっとりと湿り、蟹が這っていました。
崖からしみ出る水は、美しい羊歯(しだ)の葉先からしたたり落ちて下の岩のくぼみにたまり、あふれた水は苔の下をくぐって流れていきます。
そこには小さな竹柄杓(たけびしゃく)が浮いたまま、水滴に打たれていました。
自分は柄杓にかじりつくようにして、おいしく冷たい、五臓六腑にしみわたる水を味わいました。
少し離れた崖の下には一株の大きな野ばらがあり、純白の花が咲き乱れています。
自分は近寄ってその強い香りをかぎ、小さな枝を一本折り取りました。
人の気配がするのでふと見ると、それまで全く気づきませんでしたが、茂みの陰に柴刈りの女が一人休んでいました。
背負った柴を崖にもたせかけ、脚絆(きゃはん)をつけた足を投げ出したまま、じっとこちらを見ています。
あまりに思いがけないことだったので、驚いて見返しました。
継ぎはぎの着物は裾が短く、縄の帯を締めています。
白い手ぬぐいを深くかぶった下から、黒い髪が額に垂れかかっていました。
思いがけず美しい顔立ちでした。
都会では見ることのできない健康的な顔色は、少し日に焼けていて、いっそう美しく見えました。
人に臆することのない黒い瞳でじっと見つめられたとき、自分はなんだか悪いことでもしたかのような気持ちになりました。
思わず自信なさげにお辞儀を一つして、その場を立ち去りました。
蝉が鳴き、蒸し暑さはさらに激しくなっています。
今折ってきたばかりの野ばらの香りをかぎながら二、三町歩くと、向こうから柴を背負った若者が一人、山を登ってきました。
自分の体格には余るほどの大きな柴を背負い、のそり、のそりと歩いてきます。
たくましい赤黒い顔に鉢巻をきつく締め、腰にはよく研がれた鎌が光っていました。
すれ違いざまに「どうもお邪魔さまで」と言って、ちらりとこちらの顔を見ました。
しばらくして振り返ってみると、若者はもう清水のあたりまで上がっていましたが、向こうもこちらを振り返って見ていました。
自分はなんとなく理由もなく、手に持っていた野ばらを道端に捨てて、行く先の清水を目指して急いで歩き出しました。

七 常山の花

まだ小学校に通っていたころ、昆虫を集めることが友達の間で流行っていました。
自分も母におねだりをして、蚊帳の破れた布で捕虫網を作ってもらい、土用の日盛りにも負けず、それを肩にかけて毎日のように虫捕りに出かけました。
蝶や蛾、甲虫類がたくさん棲んでいる城山の中を、あちこちと長い時間をかけて歩き回ったものです。
二の丸や三の丸の草原には、珍しい蝶やバッタがたくさんいました。
少し茂みに入ると、樹木の幹にいろいろな甲虫が見つかります。
玉虫、コガネムシ、コメツキムシなど、種類は数え切れないほどでした。
強い草木の香りにむせながら、胸をドキドキさせてそんな虫を狙って歩いたものです。
捕まえてきた虫は熱湯や樟脳(しょうのう)で殺して、菓子折りの標本箱へきれいに並べました。
そうして標本箱の数が増えていくのが楽しみでなりませんでした。
虫捕りから帰ってくると、体は汗をかいてびしょ濡れになり、顔は火のように赤くなっていました。
どうしてあんなに虫が好きだったのだろうと、母が今でも昔話の一つとして数えるほどです。
大人になってから面白いことにもたくさん出会いましたが、あのころ珍しい虫を見つけて捕まえたときのような鋭い喜びは、滅多に味わえるものではありません。
今でも城山の奥の茂みにこもった、蒸された朽ち木の香りを思い出すことができるのです。
いつか城山のずっと裾にある、お堀に臨んだ暗い茂みに入ったとき、一株の大きな常山木(じょうざんぎ)があって、桃色がかった花が枝先を一面におおっていました。
散った花は風に吹かれて、水際に朽ちて沈んだ泥舟の上に美しく散らばっていました。
この木の幹にはところどころ虫の食い入った穴があり、穴の口には細かい木くずが虫の糞と共にこぼれ落ちていて、独特の臭気が鼻を襲いました。
木の幹の高いところに、立派な大きなカブトムシがいかめしい角を立てて止まっているのを見つけたときは、本当に嬉しかったです。
自分の標本箱にはまだ立派なカブトムシが一匹もいなかったので、胸を躍らせながら網を掲げました。
少し網が届きにくかったのですが、なんとかうまく捕まえることができたので、腰につけていた虫かごに急いで入れ、抱えきれないほどの喜びを胸に森を出ました。
三の丸の石段の下まで来ると、向こうから美しい日傘をさした女の人が、子供の手を引いて木陰を伝いながら来るのと出会いました。
町のお金持ちの家の奥さんだったのでしょう。
傘を持った手には薬瓶をさげ、片方の手で子供の手を引いています。
子供は大きな新しい麦わら帽子の紐をかわいい顎(あご)にかけて、真っ白な洋服のようなものを着ていました。
自分が下げていた虫かごを見つけると、母親の手を離してのぞきに来ましたが、目を丸くして母親のほうへ駆け寄り、袖をぐいぐい引っ張ったかと思うと、また虫かごをのぞきに来ました。
母親は「早くおいでよ」と呼びますが、なかなか自分のそばを離れません。

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