やっているのは小学生レベルの読み書きそろばんだけなんだから、工夫のしようがないんです。
あんな仕事じゃあ、お給料が安くても当然ですよね」
「学校で習ったことは役に立たないのかい?」
とお父さんが尋ねた。
「役に立たないどころの騒ぎじゃありませんよ。びっくりしちゃいました。
経済学なんて、知っているかえって邪魔になるだけです」
と、芳夫さんは大学教育の効果を完全否定した。
「邪魔になるとは厳しいねえ。大学を卒業したからこそ、採用してもらえる資格ができたんだろうに」
「それはそうですけどね。
アメリカに行く渡米労働者が見せ金(お金持ちに見せるためのお金)を用意するのと同じで、卒業証書なんてただの入場券みたいなものですよ。
だから、会社に入りさえすれば、学問なんて少しも要らないんです」
「なるほど、入場券というのは面白いね」「君の卒業証書には、『我が大学で野球学を専攻し、三年の間に一度も対抗試合をサボらなかったことを証明する』とでも書いてあったのかい?」
とお父さんは冗談を言った。
「まったくおっしゃる通りです。
それにしても、大学での成績をちゃんと調べて採用しておきながら、高卒の人たちとまったく同じ扱いなのは悔しいですよ」
「それでいいんだよ。
今のところ帳簿をつけたりそろばんを弾いたりするだけなら、仕事のスピードに大差はないからね」
「それが大違いなんです。
仕事の早さじゃ、僕たち大学を出た人間のほうがずっと劣るんですよ」
「劣るのかい?」
「僕たちは十数人一緒に会社に入りましたが、一人だって昔から店で働いている小僧上がりの人たちには敵いません」
「それは君たちがだらしないからじゃないか」
「向こうがずっとそろばんばかり弾いていた間に、こちらは財政学や会計学で頭がいっぱいになっていましたから、今さら敵うわけがありませんよ」
「それじゃあ、不平も言えないな」
「不平とは言いませんが、よく考えてみるとやっぱり割に合いませんよ。
だって、みんな高卒の人と同じお給料なんですからね」
「でも、それは最初だけの間違いじゃないのかい?」
「いいえ、ずっとこの先もずっと同じです。
あそこの会社は完全な実力主義ですからね」
「実力主義っていうと?」
「何もかも弱肉強食の生存競争に任せられます。
大学を出ているからといって特別に守ってはくれないんです」
と、芳夫さんはそろばんがよほど苦手なようだった。
「そんなことをおっしゃって、芳夫さん、もう会社が嫌になっちゃったんじゃないの?」
とお母さんは心配そうな顔をした。
「まあ、そんなところです。
もっと将来性のある仕事をしたいと思っているんです」
「三越だって将来性がないわけじゃないでしょう?」
「ほかの人にはあるかもしれません。
でも、僕にはないんです」
「まったくその通り、その通りだ。
いっそ辞めたほうがいい。
もともと芳夫さんは三越の店員なんてキャラじゃないんだから。
僕は最初から反対だったんだ」
とお父さんは相変わらず、何かを作り上げるよりぶっ壊すほうが得意な調子で言った。
「自分でもどうも向いていないとは思っていたんですが、今年はどこも不景気で八方ふさがりだと言われているところに話が来たもんですから、ついフラフラと入ってしまったんです。
でも、自分の名刺を作ったときにすでに後悔しましたよ。
どう工夫しても『三越呉服店員』という肩書がついてしまうんです。
最高学府を出た人間が呉服屋の店員だなんて、情けない話ですよね。
昔なら『越後屋の丁稚の芳どん』ってところですよ」
「そんなこと言うもんじゃない。
見識が狭いぞ。
もっと自分の個性が伸びるような仕事をするべきだ」
「ちょっとお父さん、仕事を辞めようなんて勧めちゃ困りますよ。
この子は悪いことなら誰に焚きつけられなくてもすぐやっちゃうんだからね」
とお母さんはすかさずクレームを入れた。
「仕事を辞めることが悪いことかい?」
「悪いことに決まってるでしょ」
「叔母さん、実はもう辞める決心をして、次の仕事を探して動き始めているんです」
と芳夫さんは申し訳なさそうに言った。
「まあ! お父さんやお母さんとちゃんと相談したの?」
「母には少し話しましたが、父はいつもの『石の上にも三年』主義ですからね。
だから、話すならいよいよ進路が決まってからにするつもりです」
「それで大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ」
「今度はどういう方面に進むつもりだい?
場合によっては、力になれるか分からないけど応援するよ」
とお父さんは大いに期待しているようだったが、
「銀行です」
と芳夫さんが答えると、
「あの金網の中で働くのかい」
とお父さんは言った。
「あなたは本当に悪い癖ね。
銀行や会社って聞くと、妙な反感を持つんだから。
芳夫さんが新聞社でも入ったら、ご機嫌なんでしょうねえ?」
とお母さんは、身内に実業家の多い家庭で育ったゆえの普段からの不満をちらりとのぞかせた。
「その通り、その通り」
「僕も文章を書く腕があれば新聞社に入ってもいいんですけどね……」
と芳夫さんは話を濁した。
まさか「新聞記者も嫌いだ」とは言えなかったのだろう。
「僕だって別に、会社や銀行で働く人たちに恨みがあるわけじゃない。
だけど、それなりの財産や生活力のある人間が、必死で生きている人たちのなかにわざわざ割り込んでいくのは、結局は自分にとっても他人にとってもマイナスになると思っているんだ。
そういう意味で考えれば、芳夫さんが三越を辞めるのは大賛成だね。
生活に困らない大学出身者が、宝の持ち腐れで小さな世界に飛び込むこと自体がそもそも間違っているんだよ」
「その宝の持ち腐れが、いざ使ってみたら意外と切れ味の悪い包丁だったりするんですけどね。
はっはっは」
「そんなことはないさ。
しかし、ビジネス以外の世界に出る気がないなら、いっそ一度外国に行って、もう少し自分を磨いてきたらどうだい?」
「いや、ダメですよ。
もともとの素質が悪いんですから、やっぱりこのまま大切に使い続けるしかないんです」
「芳夫さんは僕と正反対だな。
いつも自分の価値を実際よりも低く見積もっている。
やっぱり銀行員にするしかないのかな」
とお父さんはあきらめた様子だった。
これではまるで、「頭の良い人間は新聞記者になって、頭の悪い人間は銀行員になる」と受け取っているような言い草だった。
芳夫さんを玄関まで見送ったあと、お父さんは二階へ上がり、お母さんは茶の間へ戻っていった。
僕が自分の部屋(離れ)に戻ろうとすると、
「源太郎、ちょっと待ちなさい」
とお母さんに呼び止められた。
「なんですか?」
「そこに座りなさい。
これから勉強かい?」
「ううん、違うよ」
「源太郎ね、お母さん、すごく心配なんだよ——」お前も芳夫さんのようになりはしないかと思って」
「芳夫さんは悪いところなんて何もないじゃありませんか」
「でも、我慢が足りないわね。
たった二、三ヶ月ですぐ嫌になって辞めちゃったんじゃ、どこへ行ったって出世なんてできませんよ」
「だって、『越後屋の丁稚(でっち)の芳どん』なんだから、仕方ないですよ」
「源太郎、あなたも三越(みつこし)は嫌いなの?」
「うん。
初級翻訳・親鳥子鳥 第9話
佐々木 邦
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