初級翻訳・雛がたり 第2話

泉 鏡花

浅間神社で、釜で甘酒を売っている茶店に休んだ時、鳩と一緒に日向ぼっこをしているお婆さんに、「桜の咲く頃になると、阿部川の川原で地元の人が毛氈を敷き、重箱のお弁当を広げて、花の酒宴をするんですよ」と聞きました。
――阿部川への道を尋ねたついでに聞いた話です。
――都から遠く離れたこの地を府中と覚えた身には、静岡に来て「阿部川餅」を知らずに帰るわけにはいかないな、という気がしていました。
これを、おかしな名前の食べ物だな、なんて思わないでくださいね。
確かに、きな粉をまぶしたお餅のことなのです。

賤機山(しずはたやま)や浅間神社から吹き下ろす風が強い、寒い日でした。
寂しい屋敷町を抜けたり、大川の堤防を辿ったりして阿部川の橋のたもとへ出ると、人力車は一軒の餅屋に入りました。
色白で、赤い半襟をつけた、いかにも島田髷の似合う娘さんが一人で店番をしていました。
――これが名物の阿部川餅だね、一盆ちょうだい。
――
と、精一杯、喜多八のような旅人気分を漂わせて、店先のガラス戸の中に飾ってある、五つほど盛られた朱塗りの盆に、思わず立ち上がって手を伸ばすと、娘さんが「まあ」と言いました。
――あら、それは売り物(看板)ですわ――
いやはや、本物の『東海道中膝栗毛』の旅人さながらに、少し気分に浸りすぎていたようです。
それでも、その場でさっそく頬張り、吸い物をお酒代わりにして飲んだのは、我ながら頼もしい旅の姿でした。

ふと、お手洗いをお借りしたくなりました。
中戸を開けて、土間をずっと奥へ、という娘さんの案内に従って、古くて大きな中戸を開けると、不思議な造りの建物でした。すぐ壁に突き当たり、壁の窓から向こうの土間の台所が見えるのですが、まるで穴を抜けるように鉤の手に一つ曲がって、暗いところをふっと出ると、上框に縁がついた、驚くほど広々とした茶の間がありました。
大きな囲炉裏が切ってあります。
見事な広さで、大名行列の一行くらいは楽に休めそうだと思うほどです。
薄暗く、古びた畳。
ひっそりとしていて、人の気配がありません。
……猫さえもいません。
囲炉裏には火の気もなく、茶釜も見当たりません。
遠くで、内井戸の水の音が水底に響いて、ポタン、と鳴るのが聞こえます。
不思議と風が止み、寂しさが漂っていました。
見上げた破風口は峠のように高く、まるで野原へ放り出されたような心持ちになりながら、縁側に沿って中土間を、囲炉裏の前を通り抜けると、そこには桃や桜が鮮やかに輝くばかりの、五段一面の緋毛氈(ひもうせん)が広がっていました。なんと、四畳半の部屋いっぱいに、雛人形が数え切れないほど並んでいたのです。
ふと、その飾られた形も姿も、昔の故郷のお雛様によく似ているな、と思った途端、どの顔も故郷のものよりずっと蒼白く、衣も冠も、昔の雛人形の二倍ほども大きく見えました。
薄暗い白昼の影が、一つ一つの人形に映り込んでいます。
背後の古襖が半分開いていて、奥にもう一つ見える小座敷に、また五段の雛壇がありました。
不思議なことに、蒔絵の車も、お雛様たちも、それこそ寸分違わず故郷の雛にそっくりだ、と思わず背伸びをして覗き込むと、ふと気づきました。前の雛壇にいらっしゃる方々は、どれも尋常な様子ではないのです。
雛は互いに差し向かい、官女たちは横を向いたり、うつむいたりしています。
お囃子の面々はぐるりと寄り集まって、鼓の調子糸を締めたり緩めたりしており、御殿火鉢のあたりはまるで楽屋の光景のようでした。
私は驚いて飛び退きました。
敷居の外にある、苔むした内井戸には、今汲んだばかりのような釣瓶(つるべ)の雫が垂れています。――裏庭には桃だけでなく、枝の中に真黄色に咲き誇る連翹(れんぎょう)の花がありました。

帰りがけにこっそりと通り過ぎると、何事もありませんでした。
襖の奥には雛人形はなく、前の壇のものも、烏帽子(えぼし)一つとして位置が変わった様子はありません。
――その時、私は身震いするほど恐ろしくなりました。
風は相変わらず止まったままです。
広い河原に霞が流れていました。
「渡れば鞠子(まりこ)の宿と聞く……」梅や若菜を詠んだ句も思い出されます。
少し歩いてみよう。
橋のたもとの、あの大木の柳の枝がすらすらと薄緑色に垂れ下がる下を通ると、木の根元に一枚、緋の毛氈が敷かれ、四隅を美しい河原の石で押さえてありました。
雛市が立つのでしょうか。しかし、絵合わせの貝一つなく、誰もいません。
ただ、春の真昼間だというのに、人通りが全くないのです。
なぜか気が引けて、手を触れることさえできませんでした。
あの緋毛氈は、どこかの屋敷から柳の梢に逆さまに映り込んだ、お雛様の影だったのかもしれません。
夢を見ているような心地で橋へ向かうと、それも白い虹が降りてきて、群青色の水を飲んでいるかのように見えました。
あれあれ、雀が飛ぶように、毛氈を押さえていた端の石がころころと動くと、柔らかな風に毛氈が巻き上げられ、ひらひらと柳の下枝に絡みつきました。
私は愕然として、火のことを連想しました。
どこからともなく、「キリリ、キリリ」と、軋む轅(ながえ)の車の音が聞こえてきます。
鞠子の霞む長い橋、阿部川の橋の板の上を、あちらこちらと陽炎がちらちら遊んでいます。
ふと青空を見上げると、そこには富士山がそびえていました。若き娘に幸せが訪れますようにと願いながら、餅屋の前を通り過ぎると、店の人にこう声をかけられました。
「若い衆、綺麗な娘さんだね。良い婿さんでも持たせてあげたいものだね」
「ええ、餅屋の婿さんは知りませんが、向こう側に見えるあの長い塀、そう、柳のわきに裏門があるあのお邸は……旦那、大変な大金持ちでございましてな。つい最近、東京からそれはそれは美しい奥様が見えられたんですよ」
なんということでしょう。こうした話を聞くと、見ず知らずの相手であっても、恋焦がれるような憧れを抱いてしまいます。
私の欲しいものは――もし手に入るのなら――『偐紫田舎源氏』に出てくるような源氏雛です。その姿も国貞が描いた錦絵のように、花桐を一番にして、藤の方、紫、黄昏、そして桂木。桂木といえば、誰もが知る「朧月夜」のことですね。
「照りもせず くもりも果てぬ 春の夜の……」
ああ、なんだか少し、お酒に酔っているのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました