「あっ、ちょっとその灯りを、少しだけ――」
「電車が来ましたよ! どいたどいた!」
信号手はけんもほろろに信号灯を取り上げると、花房一郎から遠ざけ、夜の街を猛獣のように走ってくる電車に向かって振りました。
「赤い光だ、赤い光を!」
辺りを見回すと、向こうの薬屋の軒下に、真っ赤な電灯がまるで大きな紅玉石のように、血のような赤い光を夜の街に投げかけていました。
花房一郎は横っ飛びにその下へ駆け寄り、チラシの裏に深紅の光を浴びせました。すると、赤い模様も文字も消え、代わりに――
「今夜一時十五分、日本橋の都銀行襲撃の予定。裏口は松井以下十五名、表口は大谷団長以下八名、金庫爆破の上、本部へ引き揚げる……」
これだけの文字が、ありありと読み取れたのです。
青い光線を当てれば青い文字が吸収されて赤い文字の「銀座節」だけが現われ、赤い光線にさらせば、赤い「銀座節」は消えて、青い唐草模様の中に、恐ろしい凶悪犯たちの打ち合わせの文句がくっきりと浮かび上がったのでした。
「あった、これだ、これだ!」
花房一郎は小躍りして、もう一度自動車の中へ飛び込みました。
「都銀行の手前の路地で止めてくれ。お前はすぐ本署へ電話をかけてくれ、大急ぎだ!」
自動車は砂ぼこりを巻き上げて、夜の街を飛び去っていきました。
五
ちょうどその頃、都銀行の金庫室の中では、こんなことが起きていました。
「さあ、もうよかろう。皆、下がれ下がれ」
首領の声に促されて、五、六人の怪しい男たちは二、三間ほど後ろへ下がると、懐中電灯の明かりを金庫へ向けました。
コンクリートで築き上げられた厳重な部屋の中には、一人の美人が、一番大きな金庫に縛り付けられて、怨みのこもった目で暗闇をじっと見据えています。
「女よ、もう助からんぞ。余計なことをしなければ、お前などに構っている我らではない。なまじ大谷千尋の正体を知ってしまったのが、お前の不運だ。その金庫はニトログリセリンで爆発させる手はずになっている。口火を点けさえすればいい。お前の体は金庫の扉と一緒に、木っ端微塵に吹き飛ぶのだ。いいな」
荒縄で縛られた半裸の女の肌は、冷たい金庫に触れて、寒天のように震えていました。
しかし、女の顔には少しも屈する色はありません。
真正面から堂々と首領の覆面を見据えて、真っ赤な唇から火のような言葉を吐き出しました。
「私を誰だと思う? 知らないでしょう。どうせ死ぬのなら、その前に言って聞かせることがあるわ。私はどうしてお前に付きまとったのか、どうして島幾太郎を大谷千尋だと見破ったのか、それを教えてあげよう」
女の声は、冷たい夜の空気にこもって、恐ろしいほど響き渡りました。
死をも恐れないこの女は、一体何者だったのでしょうか。大谷千尋も覆面を取って、懐中電灯の光を女の厚化粧の顔に向けながら言いました。
「お前は美容師の村岡柳子じゃないか。それがどうしたというんだ」
「もう一つの名前は?」
「そんなこと知るもんか」
「教えてあげましょう。私は、お前に大事な機密文書を盗まれたために、三年前に自殺した外交官、岡柳村雄の妻の秀子だ。村岡柳子という名前は、亡き夫の名前の文字を入れ替えた仮名だと、気づかなかったの? お前は私を知らないだろうが、私はよくお前を知っているわ。お前は岡柳の無二の親友になりすまして、岡柳が預かっていた機密文書を盗み出し、それを反対党へ高値で売りつけたでしょう!」責任感の強かった夫は、それを苦にして自ら命を絶ちました。お前も陰ながら聞いていたはずです。いくらお前のような悪党でも、たまにはそれを思い出して、寝覚めの悪い夜もあったことでしょう。
私は美容師として日々の糧を得ながら、何とかしてこの恨みを晴らしたいと、心にもない派手な化粧をして身をやつし、お前が好きだった料理屋やカフェを漁り歩いて、三年もの間、ずっとお前を探していたのです。
浮気な後家の見本のように、人様から指をさされるのを知りながら、私は心で泣きながら、こんな馬鹿げた執念を燃やし続けていたのですよ」
恨みに燃える女の目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちていきました。
「お前を探すのは楽な仕事ではありませんでした。けれども、神様は私にいい知恵を貸してくださいました。お前は何のためか知らないけれど、時々赤い眼鏡をかけるということを、亡くなった夫から聞いていたのです。
私はそれを頼りに、カフェや盛り場を、三年がかりで探し回りました。
――ふとしたことから、お前が赤い眼鏡を持っていると知ったのは三ヶ月前です。青い眼鏡ならよくありますが、赤い眼鏡はあまり類がない。それから間もなく、お前が大谷千尋に相違ないという、動かぬ証拠を見つけてしまったのです」
女の恨みの言葉は、いつまでもいつまでも続きそうでした。
大谷千尋は、その端正な顔に怒りの稲妻を走らせて言いました。
「さあ、もう引導を渡せ。この女は、いよいよ生かしておけない」
「はっ」
動き出した一人の男が、黒い覆面のまま首領に挨拶をして、金庫に仕掛けた爆薬に火をつけようとします。
「お待ち!」
「なんだ、今更死ぬのが恐ろしいか」
「いいえ、死ぬのを恐れはしません。このまま夫のそばへ行けるなら、私は本望です。世間からはドブ泥のように汚れたものと思われていた私の身体や心ですが、玉のように清らかなままで、亡くなった夫に返すのですもの。私は一刻も早く死にたい。
けれども、たった一言だけ言い残したいことがあります。つい一時間ほど前に私は、私の影のように付き添って助けてくれる妹に頼んで、警視庁の花房探偵へ電話をかけさせておいたのです」
「えっ、えっ?」
「今頃はもう、この銀行は警官隊にすっかり包囲されているはずですよ」
「嘘を言え、こら女!」
「ほ、ほ、ほ。嘘なら嘘でもいいでしょう。ちょっとその窓を開けて外を見てごらんなさい。
さあ、早く爆薬とやらに火をつけたらどう? 何をぐずぐずしているのさ」
死を決意した岡柳秀子は、その悲しくも美しい目を閉じ、氷よりも冷たい鉄の金庫の扉に、裸の身体をもたせかけました。
「馬鹿なことを言う女だ。遺言はそれだけか? 手間取るとろくなことはない。用意ができたらやっつけよう。それっ!」
と、首領の合図の手が挙がったその瞬間でした。
爆薬に火がつくよりも早く、金庫室の扉が三方からサッと開きました。光の洪水の中に、銃口を揃えた数十挺のピストルが突きつけられます。
「大谷千尋、御用だ!」
「何事だッ!」
と思った間もなく、雪崩れ込む一隊の警官たち。轟然たる銃声が響き、金庫室にこもる煙の中で、敵味方が必死にもみ合いました。やがて五十名余りの警官隊が、十数名の凶賊を数珠つなぎにして、白日のような光の中に押し並べました。
その中程で、仕立ての良い背広をメチャメチャに引き裂かれ、あちこちを鮮血で染められた島幾太郎こと、凶賊の首領・大谷千尋がいました。しきりに警官隊の中を探していましたが、やがて文士・宇佐美六郎とは似ても似つかない、鋭く聡明な名探偵・花房一郎の顔を見ると、観念したようにその目を閉じました。
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