初級翻訳・一寸法師 第18話

一寸法師

蝙蝠のように路地の板塀に体をくっつけて、薄暗い往来を見ていると、時たま灰色の影のようなものがスーッと通り過ぎました。
それが人間に違いないのですが、少しも音を立てないので、何か物の怪のような感じがしました。
彼は山野夫人が二階に上がった気配を感じたので、もしや話し声でも漏れてこないかと、その方を見上げて耳を澄ませましたが、密閉された雨戸の中はひっそりとして、灯火の影さえ差しませんでした。
ふと何かが聞こえたように思って耳をそばだてると、遠くの方から力のない赤ん坊の泣き声が聞こえてきたりしました。
紋三はこの数日、長い間の倦怠を逃れて、かなり緊張した気分を味わうことができました。
彼はやっとこの世に生きがいを見出したように思いました。
奇怪な犯罪事件の渦中に巻き込まれて、素人探偵を気取ることも、子供らしい彼には随分面白かったのですが、それよりも何よりも、今までは何か段違いの相手のような気がして、口を利くことさえ憚られた山野夫人が、思いもかけず、くだけた調子で彼に接近してくれたことが、何よりも嬉しかったのです。
彼は三千子のことを口実に、機会さえあれば山野家を訪れ、夫人の身辺につきまといました。
そして、ついに夫人の秘密を握ることができたのです。
恋という曲者が、彼を異常に敏感にさせたのでした。夫人の一挙一動、どんな些細な事柄も彼の監視を逃れることはできませんでした。彼は小間使のお雪と同じように、今宵の密会を察知していました。そして、お雪には真似の出来ない芸当をやってのけたのです。彼は機敏にもあの怪しい人物の自動車の運転手を抱き込み、とうとうこの隠れ家を突き止めることができたのでした。名探偵の明智小五郎を出し抜いて、彼が夢にも知らない手がかりを握ったかと思うと、紋三はひどく得意な気分でした。

しかし、相手の奇怪な人物が何者であるかは、まるで見当がつきませんでした。ふと、どこかで一度会ったことがあるような気がしないでもありませんでしたが、それ以上のことは何も分かりません。分かっているのは、奴が夫人の弱みにつけ込んで彼女を脅迫していることと、夫人が何か恐ろしい秘密を抱えていて、甘んじて男の言いなりになっていることだけでした。

ですが、夫人にどんな秘密があろうと、紋三は彼女を憎む気にはなれませんでした。憎いのは相手の男です。彼は男に対して激しい嫉妬を感じていました。か弱い夫人が、今ごろあいつのためにどんな目に遭っているかと思うと、気が狂いそうでした。様々な醜い場面が、まざまざと目の前にちらつきます。そこには獣のような男がいた。なまめかしく取り乱した夫人の姿があった。それを思うと、彼は肉体的な痛みさえ感じました。

幾度、家の中へ飛び込もうとしたか分かりません。ですが、夫人の迷惑を察して、かろうじて踏みとどまっていました。待っても待っても、彼らが出てくる様子はありません。先ほどからほとんど一時間も闇の中に立っていたのです。妄想は募るばかりでした。もう辛抱がしきれません。それに、ちょうどその時、彼は二階の方から女の悲鳴のようなものを聞いたのです。聞いたように思いました。

彼は半狂乱の状態で門をくぐると、手荒く格子戸を開けました。
「ご免ください!」
家の中はシーンとしずまり返っていました。
「だれもいないのですか!」
彼は二度も三度も大声で怒鳴りましたが、何の返事もありません。彼は思い切って玄関の障子を開けました。それでもまだ誰も出てこないので、次の間との境の襖を開いて中をのぞいてみました。そこには人の影もありません。紋三は、万一とがめられたとしても何とでも言い逃れの道はあると高をくくっていました。彼は臆病者のくせに、どうかすると非常に向こう見ずな大胆さを見せることがあったのです。

彼は、いきなり靴を脱いで玄関に上がりました。しかし、さすがにあわてていたので、そこの土間に山野夫人の履物が見当たらないことに気づきませんでした。襖を一杯に開くと、次の茶の間らしい部屋へ踏み込み、奥の間との境の襖を開けてみました。そこに、一人の汚ならしい老婆が、ハッと居眠りから覚めたようなとぼけた顔をして座っていました。
「アラマア、ちっとも存じませんで、どなた様でございます?」
老婆はなじり顔に、大声で言いました。
「どうも失礼。いくら呼んでも返事がないものだから。こちらに山野の奥さんが見えているでしょう。実は急な用事ができてお迎えに来たのですよ」
「どなた様で……。今、旦那はお留守でございますが」
老婆は耳が遠いらしく、とんちんかんな返事をしました。

紋三は二言三言問答をしているうちに、もどかしくなって、老婆など相手にせず、勝手にその辺の障子や襖を開いて山野夫人の居場所を探しました。ですが、階下には外に狭い台所があるきりで、どこにも人影は見えません。彼は老婆が止めるのも聞かず、二階へ上がっていきました。今にも誰かに怒鳴りつけられるかと身構えさえして階段を上ったのですが、不思議なことには、そこにも人の気配はありませんでした。

二間続きの二階で、その六畳の方に暗い電灯がついていて、調度類もきちんとかたづいていました。妙にガランとして、今まで人がいた様子はどこにもありません。
「この人はまあ、何という無茶なことをなさる。旦那はお留守だと言っているじゃありませんか。私のほかにはね、猫の子一匹いやしないのですよ」
老婆はノコノコ二階までついてきて、紋三を監視しながら、ぶつぶつつぶやきました。
「だが、確かにこの家へ入るところを見たんだが。変だな。君はうそを言っているね」
しかし、何を言ってもほとんど老婆には通じませんでした。彼女は段々声を大きくして、しまいには隣近所に聞こえるような悲鳴を上げました。

紋三は押入れなども一つ一つ開けて見て、隈なく家中を探したけれど、老婆の言った通り猫の子一匹いませんでした。あのように表口と裏口を監視していたのですから、夫人たちがもし家を出たとすれば彼の目につかぬはずはないのです。彼が表から入った物音を聞きつけて、その隙に彼らが裏口から逃げるというようなことも不可能でした。そんな余裕のあるはずがないのです。つまり、彼らはこの家の中で消えうせてしまったとしか考えられませんでした。紋三は又しても狐につままれたような気持ちでした。考えてみると、今度の事件には妙に幾度も同じようなことが起きていたのです。三千子も部屋の中で消失したのですから。あの気味の悪い一寸法師は、養源寺の庫裏(くり)に入ったきり、まるで煙のように消えてしまいました。
そして今夜は、山野夫人の番です。
紋三は心底うんざりしました。
彼は老婆からさんざん叱られながら、すごすごとその家を後にしました。

「近頃、俺の頭はおかしくなってしまったのか。それとも、あの悪人が神業のような妖術でも心得ているのか。一体、どっちが本当なんだ」
まるで悪夢にうなされているような気分でした。
彼は電車通りを探して暗い夜道を歩きながら、ふと子供の頃に聞いた、狐や狸が人を化かすという話を思い出していました。
あの荒唐無稽で恐ろしい物語が、彼の背筋を冷ややかに凍らせます。

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