初級翻訳・一寸法師 第29話

一寸法師

隠し戸になっていたのです。隠し戸の向こう側は、壁と壁の間にある、人ひとりがやっと通れるほどの狭い通路でした。彼らは手探りでその中へ入っていきました。紋三はふと、子供の頃に遊んだかくれんぼを思い出していました。そんなふうに、恐ろしいというよりは、どこか可愛らしいような感じさえしたのです。少し行くと、先に立っていた明智が「梯子(はしご)があるよ」と注意を促しました。彼らは危なっかしい梯子を、音を立てないように気をつけながら登っていきました。登った先には一間(約二メートル)ほどの細長い板敷きがあり、そこが行き止まりになっていました。左右とも板張りで、幅は身体を横に向けなければ通れないほど狭い場所でした。
「ここがちょうど押入れの裏側に当たるんですよ」と、明智がささやき声で言いました。「静かにしていてください」
 彼らはしばらくの間、その真っ暗で窮屈な場所で、お互いの呼吸を殺して聞き合いました。紋三は押入れの向こう側に山野夫人がいることを想像すると、身体がしびれるほど気がかりでした。どうか夫人が帰ったあとであってくれと祈る一方で、あの醜い一寸法師と並んで夫人が取り乱している姿を見てやりたいという、うずくような気持ちもありました。部屋の方からはしばらく何の物音もしませんでしたが、やがてピッシャリと障子を閉める音がして、「百合枝さん、誰かに感づかれるようなことはないだろうね」と、男の太いしわがれた声が聞こえてきました。
「ええ、だって今窓から外をのぞいてみると、表に変な奴がうろうろしているんですよ。うるさい連中だわ。この間も妙な若造が家の中へ入り込んだという話だし、危ない、危ない。もうこの家も引き払い時ね。でも、あいつらまさか抜け道まで知っていまい」
 薄い板張りと襖があるだけなので、向こうの話声は手に取るように聞こえました。
「早く逃がしてください。もし見つかるようなことがあったら、本当に取り返しがつかないんですから」
 普段とは違ってひどく投げやりな調子でしたが、間違いなく山野夫人の声でした。
「それは俺だって同じことだ。だが、まだまだ心配することはない。俺の力はお前も知っているだろう」
 その威圧するような太い声を聞くと、あれが畸形児(きけいじ)なのかと思うと変な気分になりました。声だけは人並み以上に堂々としているのが、滑稽でもあり、同時にものすごくも感じられました。
「それじゃあ、引き上げようか。持ち物を忘れないように気をつけるんだ」
 その声がだんだんこちらへ近づき、畳を踏む足音と一緒に、そっと襖を開ける気配がしました。明智は暗闇の中で紋三の腕を握って合図をすると、板張りの一部に手をかけて音を立てないように外しました。ポッカリと四角い穴が開き、薄い光が差し込んできました。紋三はいきなり顔を合わせるのかと思いハッと身構えましたが、穴の向こうにはいくつもの行李(こうり)が積み重なっていて、まだ相手の姿は見えませんでした。やがて一番上の行李がそーっとどけられ、そのあとから一本の腕がニョイと伸びてくると、二番目の行李の紐をつかんでズルズルと向こうへ引きずっていきました。紋三の腕を握っている明智の手がピクピクと動きました。行李がどけられました。その向こうから、和尚の坊主頭がバアッと覗きました。二、三尺の距離で、八つの目がぶつかり合いました。
「ワッ!」
 というような音でした。四人が同時に何かを叫んだのです。和尚はいきなり奥の四畳半の方へ逃げ出しました。明智が行李を蹴散らして追いすがります。四畳半の窓を開けると、そこには物干し場がありました。階下には見張りがいるため、逃げ場は屋根の外にはありません。その畸形児は素早く窓の外へ出ると、物干し場の手すりを踏み台にして、二階の屋根によじ登りました。一足遅れた明智は、屋根からぶら下がっている相手の足をつかみました。ですが、その足はもみ合っているうちにスポッと抜けて、明智の手に残ってしまいました。白い靴下で覆われた、まるで人形の足のようなものでした。猿のように木登りのうまい畸形児にとっては、屋根の上こそ最高の逃げ場所です。彼は僧の白衣の裾を翻して、急勾配の屋根を這っていきました。
「小林君、そこの窓から刑事を呼んでくれ!」
 言い残して明智も屋根の上に這い上がりました。長い棟の上を、夕闇の空を背景にして、畸形児の白衣と明智の黒い支那服とがもつれ合って走っていきました。屋根が尽きると、畸形児は電柱や塀を足場にして次の屋根へと移っていきました。ある時は一間ばかりの距離を、両手で電線につかまって渡りさえしました。まさに一寸法師の軽業でした。そうなると、明智にはとても太刀打ちできません。
ほんの少しの距離を、一寸法師のような身軽な真似ができないために、大きく回り道をしなければならないのです。
見る見るうちに二人の距離は遠ざかっていきました。
正体を暴かれた畸形児は、もう死にもの狂いでした。
逃げたところで逃げ切れる見込みはないのですが、そんなことを考える余裕などありません。
彼はせめて、人形師安川の家までたどり着こうと必死なのです。
やがて、畸形児の行く手に一軒の湯屋の大きな屋根が立ちふさがりました。
後ろを見れば、追手はいつの間にか二人になっています。
ぐずぐずしているうちに、まだ人数が増えるかもしれません。
彼は思い切って湯屋の小屋根に飛び降りると、軒先を伝って小さくなりながら走り出しました。
ですが、やっとの思いで曲がり角までたどり着いた時、騒ぎを聞きつけて先回りをした一人の刑事が、向こうの屋根からピョイピョイと飛んでくるのが見えました。
そして、彼の姿を見つけると、いきなり大きな声で怒鳴り出したのです。
絶体絶命です。
一寸法師は最後の力を振り絞って、雨どいを伝い湯屋の大屋根に登りました。
ですが、そのひときわ高い棟の上でホッと息をつく間もなく、追手たちは同じ屋根の両端に取り付いていました。
もはや逃げる場所はありません。
そこから飛び降りて頭を割るか、おとなしく縄を受けるかです。
追手たちは身構えをしながら、瓦を一枚一枚、這い寄ってきました。
のぼせ上がった畸形児の目には、それが三匹の大トカゲのように見えました。
彼はあてもなくキョロキョロと四方を見回しました。
すると、ふと目についたのは湯屋の煙突でした。
黒く塗られた太い鉄の筒が、すぐそばの瓦の中から空へ向かって突き出していました。
彼は急にその煙突に取り付くと、得意の木登りでスルスルと登っていきました。
追手は同じように煙突を登るという愚かな真似はしません。
彼らはその下に集まって、瓦のかけらを木の上(煙突の上)の猿に向かって投げつけました。
そして気長に、相手が疲れるのを待つ積もりなのです。
ですが、畸形児には別の考えがありました。
煙突には船の帆柱のように、頂上から太い針金が三方に伸びており、その一本が狭い空き地を越えて、向こう側のゴミゴミした長屋の屋根に届いていたのです。
彼はケーブルカーのようにその針金を滑って、向こう側に渡るつもりなのです。
もしそれがうまくいけば、そこは複雑な迷路のような町ですし、夕闇が迫っている時間帯ですから、うまく逃げおおせることも、あながち不可能ではありませんでした。

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