あまりそんなに音を立てるものじゃないって、お母さんはいつも言っているのにさ」
ぼくは暇つぶしに、テーブルの下から神保さんの靴をそっと引っ掻いてみた。
その度に神保さんが「ビクッ、ビクッ」と体を動かすから、見ていてめちゃくちゃ面白い。
「もうすぐ新しい電車ができるのは目に見えていますからね、ご自分でお住まいにならなくても、今買っておいて決して損はない土地ですよ」
……ふーん、買って損のない土地をわざわざ売っているんだから、売る方には確実に損があるんじゃないのかな。
お父さんは、神保さんをうまくダマそうとしているみたいだ。
ぼくも大賛成だな。
「土地はとても気に入りましたがね、どうもこの近所が騒々しくていかんが……。水道は通っているんですか?」
水道がどうかなんてぼくには分からないけれど、とりあえず神保さんの靴をもう一回ギュッと抓(つ)ねってやった。
「水道はすぐ隣の家まで来ていますよ。それに電車の便がものすごくいいんですからね!」
お父さんは「電車の便利さ」の一点張りだ。
ぼくはまた、神保さんの靴を抓ってやった。「お宅では犬を飼っていらっしゃるんですか?」
「犬ですか、はい、1匹おりますよ。犬はお好きですか?」
「いやあ、犬が大の苦手でしてね。それも最近まではそうでもなかったんですが、あるところで占ってもらったところ、私には『犬難の相(いぬなんのそう)』が出ていると言われましてね。それからというもの、犬がすっかり嫌いになってしまったんです。狂犬病なんて恐ろしい病気ですからな」
ぼくはもう、思わず吹き出しそうになるのをこらえるのに必死だった。
「お宅の犬は、座敷には上がらないんですかね?」
今度は神保さんの奥さんが尋ねた。
「ええ、とてもお行儀の良い犬でしてね、絶対に家の中には上がりませんよ」
土地の話をしているんだか、犬の生態について研究しているんだか、さっぱり分からない。
ぼくは、あと10数えるうちに坪18円で買ってくれないなら、神保さんのすねを抓(つ)ねってやろうと心に決めた。
「土地は気に入りましたがね……」
土地を気に入っていることなんて、もうとうに分かっているんだ。
この野郎、いよいよ買う気がないだな。
ぼくは思いっきり強く抓ねてやった。
神保さんは椅子からひっくり返り落ちた。
「お医者さんを呼べ、お医者さんを呼べ!」と大声でわめき散らしている。
家を代表して父親が「うちの悪ふざけ小僧の仕業なんです」と言い訳しても、「早くしないと狂犬病になってしまう、狂犬病になるんだ!」と頑固に言い張る。
まったく、大人というのはどうしてこうも話が通じないんだろう。
とうとう二人は、ご飯も途中のまま、カンカンに怒って帰ってしまった。
いったい、お歌さんはぼくのことを何だと思っているんだろう。
ぼくの耳は、引っ張られるためにくっついているわけじゃないっていうのに。
自分の顔がおしろいを塗るためにだけ出来ているとでも誤解しているものだから、何かにつけてすぐぼくの耳を引っ張るんだ。
蔦子(つたこ)さんの秘密をおしゃべりしたって、別に構わないじゃないか。
ぼくが何か嘘をペラペラと言ったわけじゃあるまいし。
それなら縁談のことなんて絶対に蔦子さんに話すなって、あらかじめ釘を刺しておいてくれれば、ぼくだって手加減くらいしたのにさ。
急にやってきて「太郎さんはやりすぎよ!」なんて、もしこれで耳がもげたらどうしてくれるんだ。
鳥や魚みたいになっちゃったら、見っともなくて仕方ないじゃないか。
最近、お歌さんのところに遊びに来る男の人がいる。
名前を井上さんという。
昨日の夜もやってきた。
ぼくが客間にひょっこり入っていったら、二人は仲良くお話をしていたんだ。
ぼくはこの人の顔をじっくり見たかったから、すぐそばまで寄っていってじーっと観察してやった。
するとお歌さんは、「あっちへ行きなさい」というような目配せをしてきた。
目配せはしたけれど、口には出して怒らないだろうと分かっていたから、ぼくは「見て見ぬふり」を決め込んだ。
あんな目配せごときでビクともするようなぼくじゃない。
「どうだい、大将(たいしょう)」
と井上さんが話しかけてきた。
「ぼくは大将なんかじゃないよ。子どもだもん」
と言い返してやった。
すると井上さんは大声でゲラゲラ笑った。
その笑った顔がぐらぐら揺れたとき、キラキラと何かが光ったんだ。
これがものすごく不思議だったから、ぼくはこの人の顔をもっとよく見たくなった。
「ねえ、今光ったものはいったい何なんですか? お歌さんみたいに金歯でも入れてるんですか?」
「面白い坊やだなあ」
と、井上さんはぼくの質問には答えてくれない。
そして今度はもう笑わなかったから、何も光らなかった。
「あなたの顔こそすごく面白いよ。何なんですか、どうしてあなたの片方の目は少しも動かないんですか? ガラス玉なんですか?」
すると、お歌さんが怒り出した。
「何なの、太郎さんは! 失礼ねえ。あっちへ行ってらっしゃい。言うことを聞かないとお母様に言いつけますよ!」
ぼくはしかたなくその場を引っ込んだけれど、どうしても不思議で仕方がないから、少し時間が経ってからまた舞い戻った。
そしてまたジーッと顔を覗き込んでいたら、お歌さんが、
「太郎さん、あっちに行ってね、お島にお菓子とレモンを持ってきてもらうように頼んでちょうだい。すぐに持ってきなさいって伝えてね」
と、ものすごく優しい声で言った。
今度は甘い言葉でだまして追い払うつもりなんだろう。
そんなことをしたって、ぼくはすぐに戻ってくるさ。
あの目の動かない理由が分かるまでは、今夜は絶対に寝てやらないんだから。
お島に用事を言付けて、ぼくはすぐに客間へ戻ってきた。
見れば見るほど奇妙でたまらない。
右の目はちゃんとパチパチまばたきするのに、左の方は絶対に動かない。
まるで魚の目のように、いつだって見開いたままなのだ。
ぼくも真似をして、片方の目だけでまばたきしてみようとしたけれど、どうもうまくできない。
お歌さんも困り果てたのだろう、何か用事を作り出してちょっと部屋を出ていき、すぐに戻ってくると、
「太郎さん、お母様が呼んでいらっしゃるから、あっちにお行きなさい」
と言った。
だからぼくは名残惜しかったけれどお母さんのところへ行くと、お母さんは言った。
「太郎さん、お客さまの顔をそんなにじっと見つめるなんて失礼でしょ」
「だってお母さん、あの人のお目々は一体どうなっているんでしょうね? どうして片方ばかり動かないのかなあ」
「もう9時ですよ。寝る時間です」
ぼくは寝る時間なんか聞いていないのにさ。
大人というものは、本当に自分勝手な生き物だ。
小さな子どもくらい、面倒くさいものなんてこの世にありやしない。
うちの家には、こないだ親類からお客さんがやってきた。
菊ちゃんという女の子と、そのお母さんだ。
この菊ちゃんのおかげで、ぼくの大切な遠眼鏡(とおめがね)と空気銃がダメになってしまった。
菊ちゃんはまだ7つか8つで、とんでもない泣き虫だ。
ちょっと頭の毛を引っ張っただけですぐに泣く。
「殺しちゃうぞ」って小刀を見せて脅かしても泣く。
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