決して愚痴をこぼしているわけではないのですが、これは並大抵の不幸じゃないなと肌で感じられるほど、一行一行の文字から病的な神経の張りつめ方が伝わってきたのです。
ものの考え方も、ちょっと普通ではありませんでした。
なにしろ手紙の差出人名が、「かもめ」となっていたんですからね。
プーシキンの物語詩『ルサールカ』(※水の精のこと。ダルゴムージスキイのオペラとしても有名です)に登場する水車小屋のおやじは、自分のことを大鴉(おおがらす)だと言い張りますが、ニーナの手紙にも、自分は「かもめ」だということが何度も何度も書かれていました。
今ね、あの人はこの近くに来ているんですよ。
ドールン 来ているって、いったいどうして?
トレープレフ 町の安宿に泊まっているんです。
もう五日ほどそこにいるそうですよ。
僕も会いに行こうと思ったんですが、このマーシャさんが代わりに様子を見に行ってくれたところ、一切だれとも会わないと言っていたそうです。
メドヴェージェンコ君の話では、きのうの夕方近く、ここから二キロほど離れた原っぱで、あの人を見かけたそうですよ。
メドヴェージェンコ はい、見かけました。
あっちの、つまり町の方角へ向かって歩いているところでした。僕が挨拶して、「どうして遊びに来ないんですか」と聞くと、「そのうち行きます」という返事でした。
トレープレフ 来るもんか。
(少し間)
親父さんも、まま母も、はじめからまったく知らん顔で通しているんだ。
それどころか、あちこちに見張りをおいて、一歩も屋敷に近づけないようにしているのさ。
(ドクトルといっしょに、机のほうへ歩きながら)ねえドクトル、頭の中で哲学者ぶるのは簡単だけど、実際にやってみるとなると、本当に難しいものですね!
ソーリン ――それにしてもあの子は、チャーミングな娘だったがねえ。
ドクトル え、なんですって?
ソーリン チャーミングな子だった、と言っているのさ。
あの四等官のソーリン閣下までが、一時期あの子に夢中になっていたんだからな。
ドクトル ほう、まるで古い小説に出てくる「お年を召した女たらし」だな。
(遠くでシャムラーエフの笑い声が聞こえる)
ポリーナ 皆さん、どうやら停車場からお帰りのようですよ……
トレープレフ 本当だ、ママの声もする。
(アルカージナ、トリゴーリン、続いてシャムラーエフが入ってくる)
シャムラーエフ (部屋に入りながら)人間はみな自然の荒波に逆らえず、どんどん老いさらばえていくというのに、奥さんは相変わらず本当にお若い!
……薄い色のジャケットをお召しになって、なんとも颯爽としている。
……実に優雅ですなあ……
アルカージナ ほらまたそうやってお世辞を言って、私にまわりのみんなから嫉妬されようとするんだから。相変わらずねえ!
トリゴーリン (ソーリンに向かって)ご機嫌いかがですか、ソーリンさん! またどこかお悪いんですか? それはいけませんねえ!
(マーシャを見て、嬉しそうに)やあ、マーシャさん!
マーシャ 私だとわかったんですか?
(彼女はトリゴーリンの手をギュッと握る)
トリゴーリン 結婚したんですか?
マーシャ もうずいぶん前に。
トリゴーリン 幸せですか?
(ドクトルやメドヴェージェンコと会釈を交わしたあと、トリゴーリンは少しためらいながらトレープレフのほうへ歩み寄る)
トリゴーリン アルカージナさんから聞いたんですがね、君はもう昔のことは水に流して、怒りもとけたそうじゃないか。
(トレープレフは彼にそっと手を差し出す)
アルカージナ (息子のトレープレフに)ねえ、トリゴーリンさんが、あなたの新しい小説が載っている雑誌を持ってきてくださったんだよ。
トレープレフ (雑誌を受け取りながら、トリゴーリンに)ありがとうございます、ご親切に。
(彼は腰を下ろす)
トリゴーリン 君のファンたちからよろしくとのことですよ。
……ペテルブルグでもモスクワでも、みんな君にすごく興味を持っていて、僕はしょっちゅう君のことを訊かれるんです。
どんな人なのかとか、歳はいくつなのかとか、髪の色は黒なのかブロンドなのかとかね。
みんな、どういうわけか君のことを、もっと年配の作家だと思い込んでいるんだ。
それに、誰一人として君の本名を知らない。
なにしろ君は、いつもペンネームで発表しているからね。
君はまるで、あの有名な『鉄仮面』(※むかしの謎の囚人)みたいに、すっかり謎の人なんだよ。
トレープレフ ずっとここに滞在されるんですか?
トリゴーリン いや、明日はもうモスクワへ帰ろうと思っているんだ。
どうしてもそうしなきゃならない事情があってね。
中編小説を一本急いで書き上げなきゃいけないし、ほかにも、あるアンソロジーに何か寄稿する約束もある。
ひとことで言うと――いつもの忙しい生活さ。
(二人が話している間、アルカージナとポリーナは部屋の中央にカルタ用のテーブルを据え、両側の板を持ち上げる。シャムラーエフはロウソクに火をともし、椅子を並べる。戸棚からは数字合わせゲーム「ロトー」の箱が取り出される)
トリゴーリン せっかく来たっていうのに、ひどい天気にぶつかっちゃったな。
ものすごい風だ。
もし明日の朝におさまっていたら、湖へ釣りに行こうと思うんだ。
ついでにあの庭と、ほら、あの場所――覚えてるかい? 君の劇をやったあそこの芝生を、もう一度しっかり見ておきたいんだよ。
書きたいアイデアは熟しているんだけど、実際の現場の記憶をもう一度新しくしておきたくてね。
マーシャ (父親に向かって)パパ、うちの人に馬を出してちょうだい! もう家に帰らなくちゃいけないんだから。
シャムラーエフ (マーシャの口真似をして)馬を……帰らなくちゃ……
(きっぱりと)
この目で見てきたろう――ちょうど今しがた、停車場へ行ってきたばかりなんだぞ。
そんなに何頭も馬をこき使うわけにはいかないんだ。
マーシャ ほかの馬だっているじゃないの。
(父親が黙り込んでいるのを見て、やれやれと片手を振る)
またいつもの、喧嘩の種ね……
メドヴェージェンコ マーシャ、ぼくは歩いて帰るよ。
いいからさ、歩こう……
ポリーナ (ため息をついて)歩くって、こんなお天気に……
(カルタ机のほうへ腰を下ろしながら)
さあ、どうぞ皆さん、おかけください。
メドヴェージェンコ たかが六キロですからね……
(妻の手の甲にそっとキスをして)
おやすみなさい、お母さん。(しゅうとは、キスをされるのがいやでイヤイヤながらも手を差し出す)
メドヴェージェンコ 「どなたにも迷惑をかけたくはないのですが、ただ赤ん坊が……」
(みんなに頭をペコリと下げる)
「おやすみなさいませ」
(そのまま退場する。どこか申し訳なさそうな後ろ姿だった)
シャムラーエフ 「歩いてだってちゃんと帰れるさ。
初級翻訳・かもめ 第19話
かもめ
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