ねえ、お布団を敷いてちょうだい」
そして、夜が明けました。
夜は明けましたが、弥六が目を覚ましたのは、もうお昼過ぎのことでした。
これは、とても珍しいことです。
なまけ者のくせに、彼はいつもは早起きでした。
「朝早く起きれば、その分、一日中たっぷりダラダラできるからな」というのが、彼の考えだったのです。
こんなに寝坊したのは、生まれて初めてのことでしょう。弥六は起き上がると、ぼんやりと部屋の中を見回しました。
おんぼろの長屋なので隙間だらけです。外からの光が、これでもかというほど差し込んでいました。
「おっ、本当にあるぞ! ウナギも、お酒も、おかもちも!」
弥六は、すぐそこにそれらの品物があるのを見つけました。
「ってことは、夢じゃなかったんだな」
彼は頭を振り、ふと台所のほうを向いて呼びかけました。
「おまえ、そこにいるのか? おい……お染!」
もちろん、返事はありません。
表の通りで騒いでいる、子供たちの声が聞こえてきます。
弥六は体のあちこちをボリボリとかきながら、独り言を言いました。
「そうか。幽霊だから、昼間は出てこられないんだな」
四 これは不思議、夜だけの奥さん
夫婦になる約束をして、お酒を酌み交わした証拠はちゃんと残っています。
明け方まで続いた、あのうっとりするような楽しい時間の記憶も、はっきり残っています。
「また夜にね」と約束もしました。
しかし、本当でしょうか。彼女はまた来るのでしょうか。
「いや、来ないかもしれないな。あまりにも話がうますぎるもんな」
たぶん、これきりでおしまいなのでしょう。
そう思うと、なんだか惜しくてたまりません。
「でも、もしかしたら来るかもしれない。なにか、彼女が喜んで来てくれるような工夫はないかなあ」
二年間の独り暮らしにも、そろそろ飽きてきていました。
なんだか人恋しくもなっていたのです。
そこへやってきた、このラッキーな出来事。
しかも相手は、江戸でも評判のおしゃれで粋(いき)な芸者さんです。「働け、働け」とうるさく言わないどころか、自分でおいしいお酒やおつまみまで持ってきてくれるのです。たとえ幽霊だとしても、こんなチャンスを逃す手はありません。それに、二人で過ごした時間は本当に優しくて幸せでした。
「こいつは絶対に逃がせないぞ!」
弥六は珍しくやる気を出しました。
「なにか方法はないかな。その、幽霊の機嫌をとるような方法は……。うーん、うーん、いや、それはダメだ。それは違うな……」
彼は一生懸命考えました。
何度も考え直しました。
それからようやく名案を思いつき、長い間開けたことのなかった仏壇(ぶつだん)を開けました。
中には亡くなったお父さんとお母さんの位牌(いはい)がありました。それから、貧しいながらも仏具が一通りそろっていて、絵で描かれた「めくら経(きょう)」の般若心経(はんにゃしんぎょう)などが、ホコリをかぶっていました。
ホコリを払うのは面倒だったので、弥六はそのまま、残っていた小さなロウソクに火を灯しました。
お線香の燃えかすにも火をつけました。
「なにしろ、亡くなった人にはお経が一番のごちそうだって言うからな。これなら、あいつも喜ぶだろう」
皆さんは知らないかもしれません。
「めくら経」というのは、なぞなぞの絵のようなもので、お経の言葉がすべて絵で描かれているのです。
「はんにゃはらみた」という言葉が、絵を順番に見ていくとそう読めるようになっています。――実物を見ないと分かりにくいかもしれませんが、――文字が読めない人でも、お経が唱えられるようになっている便利なものなのです。
弥六は仏壇の前に座ると、亡くなったお母さんがお経を唱えていた様子を思い出しながら、この「めくら経」をたどたどしく読み始めました。
なまけ者の彼にしては、とても真剣だったのですが、ところがこれが大失敗でした。全然ダメなのです。自分では一生懸命お経を読んでいるつもりなのに、口から出てくる言葉はまるで違います。お経とは全く関係のない、流行(はや)り歌のような言葉が飛び出してくるのです。
「――あなたと一緒に寝る夜は、自分の腕が邪魔になる……」
こんなことになってしまいます。
弥六はびっくりして、目をこすり、ゴホンとせき払いをして読み直しました。「せっかく会えたのに、文句を言うなんて野暮(やぼ)だよ。……ゴホン、たまに……ゴホン、おかしいな。……しっぽりと抱きしめておくれ。ああ、こりゃこりゃ、ときたもんだ」
どうしても、こんな風になってしまいます。
何度やり直してもうまくいかないので、ついに弥六(やろく)は嫌になってしまい、お経の絵本を放り投げてゴロンと横になってしまいました。
「バカバカしい。もう、どうにでもなれ!」
やけくそになって、そのまま眠ってしまったようです。
どのくらい眠ったのでしょうか。枕元で、お皿や小鉢がカチャカチャと鳴る音がしたので、パッと目を覚ましました。
すると、そこにはあの幽霊の女の人がいて、
「よく眠っていたわね。やっと目が覚めた?」
と言って、にっこり笑いました。
「おまえ……おまえ、また来てくれたのか!」
「嫌なことを言わないでよ。あたしはあなたの奥さんじゃない。ずっとここで一緒にいたのよ」
「だけどおまえ、俺には見えなかったぞ」
「それは最初に言ったでしょ? 幽霊は夜だけなの。昼間は見えないのよ。あなただって、さっき自分でそう言っていたじゃない。あ、そうだわ。さっきのことで思い出したけれど、あなた、今日は大変なことをしてくれたわね」
「大変なことって、俺が何かしたか?」
「『俺が何かしたか?』じゃないわよ」
お染(おそめ)はピシッと座り直しました。
「あなた、仏壇を開けて、般若心経(はんにゃしんぎょう)を読もうとしたでしょ」
「いやあ、すまない。あれを聞かれちゃあ、恥ずかしくて顔が見せられないよ」
弥六は頭をポリポリとかいて、困ってしまいました。
「俺は、ちゃんと読むつもりだったんだ。お袋が読んでいるのを覚えていたし、自分でも読まされたことがあるから、読めないはずはないんだ。だけど、どうしてもダメなんだよ。どう頑張っても、変てこな流行り歌みたいな言葉になっちゃうんだ。情けない。許してくれ」
「そうじゃないのよ。あれは、あたしがやったの」
「おまえがやったって、何をだ?」
「お経を読めないように、邪魔をしたのよ。だって、あなたに般若心経なんて読まれたら、あたし、成仏(じょうぶつ)しちゃうじゃない。成仏したら、もう行くべきところへ行っちゃって、あなたに会えなくなっちゃうわ」
「へえー。お経を読むと、成仏しちゃうのか」
弥六は不思議そうな顔をしました。
「だっておまえ、確か『しんにゅう』だか『しんべえ』だかっていう強い恨みがあって、どんなに偉いお坊さんがお祈りしても、天国へは行けないって言ってなかったか?」
「もう、嫌だわ。『しんにゅう』とか『しんべえ』じゃないわよ。『瞋恚(しんい)』、つまり激しい怒りのことよ。
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