お月さまが四つある星の話や、その星でのちょっと変わった習慣、彼女の星ではもう実現しているというタイムマシンの話や、宇宙旅行用のロケットの話など、彼には想像もつかないような別世界の話ばかりだった。
その中にはロボットの話もあったし、自分の思い通りのものをパッと出現させたり、時間も空間も無視して、自分が行きたいところへ、好きな姿ですぐに行けちゃう星の生物たちの話もあった。自分たちの手で作ったエネルギーで星ごと全滅してしまった話や、宇宙のあちこちで行われている戦争の話なども聞いた。
また、いまだに古いタイプの空飛ぶ円盤にびっくりしている星や、そんなものの存在なんて信じないという、彼女にいわせれば「頭の少しにぶい生き物たち」が支配している星での出来事なんかも教えてくれた。
彼女が着ているお洋服は、そのときの光の具合によって色が変わるのだった。
月夜にはきれいな月光の色になり、太陽がまぶしいお昼にはキラキラ輝く黄金色に、朝のうす明るい時間はやさしいバラ色に、夕暮れどきはあたたかい茜色に、そして雨の夜には、その濡れた夜の闇の色にぴったりと変わるのだ。
彼女は、まるで空気だけでお腹いっぱいになるみたいに、何も食べなかった。
そして、いつもニコニコと、人を夢中にさせるようなやさしい笑顔を向けてくれた。
彼が目を覚ますと彼女も目を覚まし、彼が眠るときには彼女も眠る。そして、彼が見ていないときは、まるでどこにも存在しないみたいに、彼女も彼のほうを見ない。
……
彼の毎日の生活は、この5センチに満たない小さな彼女を中心にまわっていた。
毎日、彼はどれだけ話を聞いても飽きることなく、彼女に見惚れつづけた。
彼女はだんだんと、彼にとってなくてはならないもの――恋人のような特別な存在になっていった。
彼は彼女を心から愛し、彼女といっしょに目で語り合っている時間こそが、人生で一番幸せなひとときだった。
そのため彼は、妻のほうをほとんどかまわなくなっていしまった。
小さな彼女、そして声を出さずに目で話す彼女にすっかり夢中になっている彼にとって、妻の姿はあまりにも大きすぎ、その声はあまりにもうるさく感じられたのだ。
いつの間にか彼は、身長5センチの彼女の世界に入り込み、その小さな目から妻を見つめ、その小さな耳で妻の声を聞くようになっていたのかもしれない。
かつては愛していたはずの妻の肌は、今では毛穴ばかりが目立つ、まるでグロテスクな象の皮膚のようにしか見えなかった。
お風呂上がりのときに、昔は「きれいだな」とうっとり見とれたあのほんのり赤い白い肌も、今が見ると、しわだらけで、赤いシミがあちこちに散らばった、まだら模様の、しかも臭くて安っぽいゴムのシートのようにしか思えないのだ。
おまけに、そのしわの間には必ず脂と汗がテカテカ光っていて、毛穴からは針のように恐ろしい太い毛がツンツンと突き出している。
あるとき、思わずキスをしようとしたけれど、彼はあまりの気持ち悪さと恐怖に、思わずサッと身を引いてしまった。
まるでクジラが大きな口をあけたような、真っ赤な洞窟みたいな巨大な暗がりのなかに、原発事故ででも膨らんだかのような不気味なアミーバみたいな舌が隠れていて、それが無数のブツブツを密集させながらうごめいているのが、どうしようもなく気味悪くてたまらなかった。そのうえ、自分がそのヌルヌルした赤い洞窟の中にスポッと吸い込まれ、丸呑みにされてしまうような恐怖さえ覚えたのだった。
「……どうしたの? いったいどうしたっていうの?」
目をうすく開けて、妻が心配そうに尋ねた。
彼は思わず自分の耳をふさぎ、顔をしかめて大声で叫んだ。
「うるさい! だまってしゃべれないのかよ!」
妻はピタッと口をつぐみ、目を涙でうるませながら横を向いた。
とても怒っている表情だった。
その夜、彼は二人のベッドを、部屋の中でできるだけ遠く離れた場所へと移動させた。
「ねえ……いったいなにがそんなに気に入らないの? ちゃんと言ってよ。
……ねえ、なんか言いなさいよ!」
ベッドの上にポツンと座ったまま、妻が言った。
彼は冷たく言い返した。
「君は、どうしてそんなに言葉ばかりほしがるんだよ! 人間なんて、みんな言葉にならない大切なもので生きているんだ。
言葉にならないその奥の場所にこそ、本当のぼくたちがいるんじゃないか。
言葉なんかなくても心が通じ合わなくなくちゃ、そんなの夫婦なんて言えないだろ! もういいから、黙ってくれよ!」
「だって私は……!」
「お願いだから、黙ってくれ!」
妻はぷいと勢いよく立ち上がると、ベッドから降りて三面鏡のほうへ歩いていった。
彼は頭からすっぽりと布団をかぶった。
彼と妻の心の距離はどんどん離れていき、それとは反対に、彼の小さな彼女への想いは、ますます大きくなっていったのだった。妻とのしらけた時間のあと、だから彼はかならず引き出しの鍵をあけて、5センチの彼女と「目で」話すのに夢中になった。
ああ、自分も5センチの小人になり、同じ仲間となって同じ机の引き出しの中にある、マッチ箱ほどのベッドに横になって彼女を抱くことができたら、彼女と結婚することができたら、どんなにすばらしいだろう!
あまりにも小さな彼女をじっと見つめながら、彼はときどき、どうしようもない強い欲望にとりつかれ、まるで頭がおかしくなったように冷たいシャワーを浴びたり、ベッドを激しく殴りつけたりした。
5センチの彼女は相変わらず魅力的で、やさしかった。
もしお互いの大きさが同じだったら、きっと自分の妻になってくれるだろうに。
何とかして自分が小人に、または彼女を自分と同じ大きさの人間に――つまり、二人の体格がぴったり合うようにできるものなら、彼はきっとなんの迷いもなくすべてを捨てただろう。
……
激しい欲望で火照ったからだに、刃物のように冷たく鋭い風が、かえってものすごく心地よく感じられた。
季節はすでに冬に入り、いつの間にか、十二月の終わり近くなっていた。
彼はまたアパートの手すりにもたれかかっていた。
冷たい木枯らしが夕暮れの街を駆け抜け、胡麻粒のように小さく見える人たちもみんな、コートの襟を立てて、うつむきがちな足取りで急ぎ足に歩いていた。
彼はぼんやりとその様子を下に見下ろしながら、その日の朝刊の見出しを一生懸命に思い出そうとしていた。
胸の中で煮えたぎるような欲望を必死に抑えつけるための、それは彼のいつものおまじないだった。
「……お月さまが出たわね」
ふと気づくと、ススけたような夕暮れ色のスーツを着た彼女が、手すりの鉄棒にちょこんと腰を下ろしていた。
「オレンジ色なのね、今夜のお月さまは」
彼女の目が語っているとおり、東の空から蜜柑色の巨大な顔を出した月が、ちょうど影絵のようになったビルの屋根のてっぺんから離れようとしていたところだった。
「長いあいだ、お世話になったわ。
でも、私、今夜ここを発つの」
「えっ? 今夜もう?」
「ええ」
彼の目は言葉を発せず、じっと彼女を見つめた。
しばらくの間、彼女の目も何も言わなかった。
「私の休暇は、今日でおしまいになったの。
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