悲劇の部屋
伊藤豊治(いとうとよじ)というお兄さんが、顔を洗って着替えをしているところに、制服を着たホテルのお手伝いさんが朝のコーヒーを運んできました。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「ぐっすり眠れましたか?」
豊治さんはネクタイを結びながら、お手伝いさんが用意してくれたコーヒーのテーブルのほうを向きました。
――なんだか、あまり機嫌のよさそうな顔をしていません。
「よく眠れなかったよ、君。一体、この向こうの部屋にはどんなお客さんが泊まっているんだい? ひと晩中ヘンな音を立てたり、気味の悪い声をだしたりして、本当に参っちゃったよ」
「向こうの部屋といいますと?」
「廊下の向こうさ。このウイングには、向こうと言ったら、この部屋と廊下の向こう側の、部屋が二つしかないじゃないか」
お手伝いさんは、なにか心当たりがあるのか、サッと顔色を変えてパッと目をそらしました。
伊藤豊治は、九州大学の工学部で研究をしている大学院生でした。お世話になっている先生の鹿谷弘吉(しかたにこうきち)博士が、ある研究の発表をするために東京へやってきたあとを追いかけて、そのお手伝いをするために昨日の夜、東京に到着したのです。
――ところが、このホテルに来てみると、先生は研究の仕事で仙台へ出張したあとだということで、豊治さんは昨日の夜、ひとりでこのホテルに泊まったのでした。
彼の泊まった部屋はホテルのウイングの端にあって、そこには廊下をはさんで二つの部屋が向かい合っています。
その向こう側の部屋から――昨日の夜、ひと晩中、女の人が苦しそうにうめくような悲しい声や、長い紙を静かに引き裂くような音が、聞こえては消え、消えては聞こえてきて、なんだかイライラしてちっとも眠れないまま、朝を迎えたのでした。
「――やっぱり、お聞きになりましたか」
お手伝いさんは、やがて声をひそめて言いました。
「やっぱりって? 何かあるのかい?」
「あの部屋には、だれも泊まってはいらっしゃいません。
もうずっと昔から、お客さまをお泊めしないことになっているんです。――というのも、実はここだけの内緒の話なんですが、その部屋は『幽霊の出る部屋』と言われていて、私たちスタッフの間でも、みんな怖がって近づかないくらいなんですよ」
「ははは、今どき幽霊なんて、古くさいことを言うんだね」
「笑われるかもしれませんが、現に昨日の夜、お客さまがその声をお聞きになったじゃありませんか」
豊治さんは、ふっと笑うのをやめました。
――昨日の夜のま夜中に聞いた、悲しそうな女の人のうめき声を思い出したからです。
お手伝いさんは、さらに声を小さくして言いました。
「そうなんです。――ここだけの話ですが、二年前の冬のある夜、あの部屋にお泊まりになったお客さまがいまして……おじいさんと、その若い美しい奥さんだったのですが、お泊まりになったその夜、おじいさんが若い奥さんをナイフで刺し殺して、自分も自殺してしまうという事件があったんです。
詳しい事情は知らないんですが……部屋は血だらけで、ベッドからはい出した奥さんが、ドアのノブをつかんだまま血まみれになって、髪をふりみだして死んでいたその様子といったら、もう恐ろしくて――今思い出してもぞっとします……」
お手伝いさんは、ブルッと体をふるわせました。
「それ以来、あの部屋にお客さまをお泊めすると、必ず変なことが起こるので――今では使わないことになっているんです。
ですが、どうか……このお話は、決してほかの人には言わないでくださいね。なにしろ、こんなうわさが広まっては、商売あがったりですから」
「その点は安心しなさい。僕なら絶対にだれにもしゃべったりしないから」
「ありがとうございます。
もしよろしければ、すぐにお部屋をお換いたしましょうか?」
「いや、ここでいいよ」
「しかし、もしお客さまに何かあったら……」
「まあ、それほどのことにもならないだろう」
お手伝いさんは会釈して、部屋から出ていきました。
いやな話だなあと、豊治さんは思いました。昨日の夜、確かに聞いた女の人のうめき声や、あの長い紙を静かに静かに引き裂くような音が、ハッキリと耳によみがえってきます。
――ドアのノブをつかんだまま血まみれになって死んでいたという、若い奥さんの姿まで、なんだか目に浮かんでくるような気がします。
「まったく! いやな話を聞いちゃったな」
舌打ちしながら、コーヒーをグイッと飲んで、タバコに火をつけようとしたとき、テーブルの電話がジリジリと鳴り出しました。
――受話器をとると、いきなり元気いっぱいの女の子の声で、
「あら、お兄ちゃんでしょ?」
と、叫ぶように言いました。
牛込若松町(うしごめわかまつちょう)にお母さんとふたりで住んでいる、妹のみどりでした。
――豊治さんとは七つ離れた今年十八歳で、みどりという名前の下の二文字をとって「ドーリー」と呼ばれている、おてんばな女子学生です。
「なんだ、ドーリーじゃないか」
「ひどいわ! 東京にいらしたのに、どうしてうちにお知らせしてくれなかったの?」
「君はまた、どうして僕が来たことを知ったんだよ?」
「昨日の夜、ホテルのロビーでお友達がお兄ちゃんを見かけたんだって! きっとお兄ちゃんに違いないって教えてくれたのよ。どうしてうちに来ないの?」
みどりのピンチ
「やっぱりそうだったんだわ!」
みどりは電話を切ると、お母さんのほうをパッと振り返りました。「で、いったいどうしたんだい?」
「なんだか、だれにも秘密にしておかないといけない大切な研究の発表のために、鹿谷(しかたに)博士といっしょに東京にいらしたんだって。だから、そのお仕事が終わるまでは、まだうちには来られないそうなの」
「そう――じゃあおまえ、福岡のほうへ送ってあげようと思って用意していた、下着のズボンやシャツを持っていってあげおくれよ」
「そうだね! どうせ学校の帰りに、麻布の村上さんのおうちを訪ねる約束をしているから、そのついでに行くわ。それに、お兄ちゃんの汚れた洗濯物があったら、持って帰ってくるね!」
もう一年ぶりにお兄ちゃんに会えると思うと、みどりの心はウキウキと踊っていました。
学校が終わったのは午後四時。それから片町の友達の家を訪ねたのですが、どうしても帰してくれと引き止められてしまい、六本木の近くにある「山手ホテル」に着いたのは、午後七時を過ぎたころでした。
――ホテルの受付で部屋の番号を聞くと、若いホテルのボーイさんがいて、三階の六号室だと教えてくれました。
「お部屋までご案内しましょうか?」
というのを断って(いきなり行って、お兄ちゃんをビックリさせてやろう――と思ったのです)、トントンと階段をかけあがり、右側のウイング(別棟)の方へ曲がって、右側にある「六号」と書かれたドアを見つけました。そっとドアノブを回してみると、鍵はかかっていませんでした。
――わあ、いるんだわ!
そう思って、すくすくっと肩をすくめながら、音を立てないようにそっとドアを開け、足音を忍ばせて部屋に入りました。
そこは、寝室と手前の部屋が、カーテン一枚で仕切られていました。
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