初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第14話

亡霊怪猫屋敷

新之丞が帰ってくる前に、さあさあ早く早く、あとしまつをつけなければならん」
「ご……ご主人さま、おどろいた拍子に腰が抜けまして……た、立つことができません……」
「情けないやつめ、この程度のことに! さあ、立ち上がらんか!」

と、利き腕をつかまれてポンと一つ、お尻を蹴飛ばされて、佐平治はやっとの思いで立ち上がったのでした。「人に知られては、身の一大事! 命おしくば、さ、早くいたさぬか!」
おどかされて、すかされて、這うようにして納戸のむこうへころがり込んだ佐平治の声が、とぎれとぎれに聞こえてまいります。
「八重どの……藤どの……仲八、権六……定吉……表座敷へ、出てはなりませぬぞ! 碁のいさかいから、旦那さまの機嫌が悪くなられ、竜胆寺さまの若さまは、お帰りになられた。
だれかれ構わず容赦なくぶった斬ると、旦那さまが抜刀あそばされた。
佐平治がなだめ申し上げるまで、けっして広書院の方へ、出てはなりませぬ。
命が惜しければ、近づくでない! ……。
竜胆寺さまのお供の方はおられるか? 竜胆寺さまのお供の方はどこにおられる!」
と、ふるえながら呼びわななく佐平治の声が、表玄関の方まで響いてまいります。
そうら、旦那さまの機嫌がいちだんと悪くなられたぞ! と、召使いたちはみんなびくびくしながら、納戸のかげに縮こまって集まっています。
そのあいだに佐平治は、うまく言葉を取り繕って、不審そうな顔をしている若さまのお供を追い返してしまいました。
そして言われたとおり、番手桶に水をくんできまって広書院にもどってみたところ、すでに左近将監は死体をどこかへ運び去ってしまったとみえて、もはやそこに若さまの姿はなく、それどころか、大村藩の城代家老ともあろう身が、袴の股立(ももだち)を高くたくしあげ、たすきをかけて、まるで下男のように、せっせと畳の血のりや欄間の血しぶきをふき取っていました。
それから一刻あまりが過ぎたあと、だれも玄関へ出迎えるものがないことに不審を抱きつつ、
「ただいま戻りました」
と、表玄関から入ってきた新之丞の声を聞きつけると、びっくりしたように飛び出してきたのは、藤でもなければ八重でもなく、若党の佐平治だったのです。
薄暗い場所なのではっきりと顔は見えませんが、なんだか妙におびえているくせに、どこかソワソワとして落ち着かず、
「さ、さ、若さま! 旦那さまがさきほどから、お待ちかねでいらっしゃいます。
そのまますぐに、どうぞ! 若旦那さまのお帰りでいらっしゃいまするぞ!」
と、案内してくれた広書院は、すでにすっかりきれいに洗い流されていて、ほんのひと時まえ、そこであんなにも恐ろしい惨劇が演じられたとは、だれも気づくはずがありませんでした。
そして城代の左近将監は、円窓の近くにきちんと座り、手灯籠(てあんどん)のかたわらで読書に夢中になっており、入ってきた新之丞を見ると、
「せがれか?」
と、ふりむいた顔は、いつもと変わったところは少しもありません。
「お前に、少し話したいことがあっての……帰りを待っていたところじゃ! さあさあ、もっとそばへ寄れ。
人目をはばかる大事なことだから、もっと近くに寄らぬか!」
と、落ち着き払って膝を向けてきましたが、もしそのとき新之丞に、少しでも勘が働いていたならば、長押のほとり、欄間のあたり、そして天井の上、いくら拭いても清めても、どうしても取り除くことのできない人間のあぶらだけは、うっすらとそこに消え残って、無念に歯がみをしている花のような若さまの魂が、いまだにこの部屋の中にさまよっていることに、きっと気づいていたことでしょう。
「よいか、わかったな、家の一大事、父の身の破滅にも及ぶことなれば、くれぐれもそちは、けっして人にもらすでないぞ! 殿が国にお帰りになられた暁には、殿へのご対応は、父よりうまく申し伝える。
そちはただ、人にもらささえせねばよいのじゃ、わかったな、わかったか?」
と、険しい目つきで、左近将監は新之丞に、無理強いするように念を押しています。
「身分の高い家柄とはいえ、あまりといえばあの小童めが、家柄を鼻にかけて調子に乗りおったからじゃ。
いわば小童が、みずから招いた自業自得というべきところなのじゃ。
江戸におられる殿にかわって、この父が成敗してやったようなものなのじゃ。
あんな小童を、かわいそうに思うことなど、みじんもないわい! わかったな? 新之丞、わかったならそちはただ、口をつぐんでおれば、それでよいのじゃ!」
手灯籠の影はほの暗く、自分の正当化ばかりを並べ立てている左近将監の声は、ボソボソといつまでも続いていきますが、うなずいている新之丞の顔は、父から秘密を打ち明けられて、一刻ごとに血の気が引いていくように見えます。
うつむくふたつの人影――。

あくる日から、左近将監はいつもと変わらずにお殿様のお屋敷へ出仕し、またお殿様にかわって藩の政治を取り仕切り、その顔色にも行動にも、変わったところは少しも見えません。しかも左近将監のいいふらしたうわさ――九州の麒麟児といわれる碁の天才小金吾を、左近将監がやぶったばかりに、小金吾はその身をはじて、修業していっそう腕をみがかんものと、その晩城代の邸をとびだしたきり、家へももどらず、いずこかへ出奔してしまったというそのうわさを、そのまま真にうけて、問う人があれば、
「いやいや、拙者の腕がつよくて、小金吾どのをやぶったわけではござらぬ。
ほんのはずみで、三番勝負のうち三番まで、勝ちとおしたというまでのこと、まったく偶然でござるよ。
さるを、若気のいたりとはいえ、たかが勝負ごとぐらいに敗れたからとて、目の不自由な老母をうちすてて、碁の修業に出奔するとは、たとえがたき不所存者! 拙者、小金吾どの老母が、つくづくと気のどくでならぬ。
名家竜胆寺家も、かかる不心得者をだしては、もはや末でござるな」
と、眉をひそめながらためいきをついているのです。
そればかりか!
「おそるべきお腕前、いかがなものでござりましょうな、ご城代! それがしにも一手、ご指南をねがえませんかな?」
と請うものがあっても、左近将監はかぶりをふって、それ以来プッツリと、碁石を手にしません。
「いやいや、いたすまじきは勝負の道、拙者あの晩に、小金吾どのの憤激ぶりを見て、家をほろぼすものは勝負事であると、つくづく感じもうした。
以来碁は、もはやけっしていたさぬと、拙者心にちかってござる」
と、笑いにまぎらしていうのですから、これをきいた人々は、癇癪もちでも家老はやはり家老だけのことはあると、感心して、なおさら左近将監をうたがうものは、ひとりもありません。
みんな御城代のいわれるとおり、さては小金吾どの碁にまけたくやしさに、一修業してくるつもりで出奔してしまわれたなど、こういちずに思いこんでいたことでした。
さて、このごろ左近将監のかわったことといえば、碁のかわりに書見がたのしみだといって、御殿からかえってくると裏のはなれ座敷へひきこもって、本ばかりよんでいることでした。

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