こうしたことこそ、学問を深く修めた優れた学者たちが、広く古い遺物や伝説を探し出し、本に書かれていること以外の場所から材料を集めて、しっかりと研究すべきなのです。中堀僖庵(なかほりきあん)が書いた『萩の栞(はぎのしおり)』という本(天明四年の再版)の十一丁の裏には、こんなことが書かれています。「いけこめの御陵(みささぎ)というのは、大和の国にある薬師寺(やくしじか)の裏にあって、昔いつの頃だったか、采女御門(うねめのみかど)での別れを悲しんで、生きながらそこにこもった人のものだ」と。これは、垂仁(すいにん)天皇の時代に、土偶(どぐう:土で作った人形)を人のかわりにしてお墓に一緒に埋める風習(殉葬)をやめさせたあとも、後の時代に至るまで、ごくまれに自分から進んで生きたまま埋められる人がいたという事実が、歴史の記録から漏れて伝説として残ったもののように思われます。
いわゆる殉葬の中には、お墓(御陵)をしっかりと固めるため的人柱もあったのだろうと察せられます。
そう書き終えてさらに調べてみると、『明徳記(めいとくき)』という本にはすでにそのことが記されており、薬師寺のあたりにその名前をいまに残している「池籠(いけごめ)の御座敷」というのがまさにこれにあたるのだろうとあります。
それよりもさらに古い『俊頼口傳集(としよりくでんしゅう)』の上巻にも、「いけごめのみささぎ」として、薬師寺の西側にいくつものそのような場所があることが記されています。
また、「そんな残酷なことは、昔の人々がまだ物の道理を知らなかった古い時代の話であって、今から二、三百年前の江戸時代にはもうそんなことはなかったはずだ」と言う人もたくさんいるかもしれません。しかし、徳川家康公が亡くなる二日前に、三池典太(みいけたんた)という名刀で罪人を試し斬りさせ、「切れ味が大変よい」と聞いてから、自分でもその刀を二、三度振り回し、「わしはこの剣で長く子孫を守るのだ」と、顔色がとてもよさそうだったという記録があります。また、イギリス人のコックスの日記には、侍医が「家康公はご高齢だから、若い人のようにすぐには病気が治りません」と答えたところ、家康公が大いに怒ってその医者を寸断させてしまったという事件も書かれています。
試し斬りというのは、人間の命よりも刀を尊ぶという、はなはだ不条理で不人道なことですが、今から百年前後前(明治時代のごく初期)に至るまで、どうやら時々行われていたようです。
そのほかにも、木馬(もくば:刑罰の道具)、水牢(すいろう)、石子詰め(いしこづめ)、蛇責め(へびせめ)、貢米賃(こうまいちん:これは、領主が年貢を払わない農民の妻を連れ去って乱暴したというもので、イギリスでも似たようなことが17世紀まであり、イギリスの政治家ペピース自身の記録にもその日記に出てきます)などなど、はっきりとした正史には書かれていなくても、「本当はまったくなかったわけではない」という残酷な出来事は、まだまだたくさんあったのです。
三代将軍(徳川家光)が亡くなったときに、近習の家臣たちが何人かあとを追って切腹した(殉死した)という話を「嘘の伝説だ」と言って、黒を白に塗り替えることはできません。
そう考えてみると、人柱という風習が、徳川家康の時代に完全にまったく行われていなかったとはどうしても思えないのです。
「こんな残酷なことが外国に知られてしまったら、日本の大きな国の恥だ」と言う人もいるかもしれませんが、そんな国の恥はどの国にもあるものです。
西洋の国々でも人柱はたくさん行われており、ごく最近に至るまでその痕跡が少なくなかつたことは、先ほど紹介したベーリング・グールドをはじめとする民俗学者たちがしっかりと証明しています。
その例を二、三、手当たり次第に挙げてみましょう。
ローマを建国したロムルスは、ローマを始めたときにファスツルスとキンクチリウスの二人の人を埋め、その上に大おきな石をかぶせました。
カルタゴの人たちは、フィレニ兄弟を国の境目に埋めて、国を守る神としました。
西暦紀元前114年、ローマがまだ共和国だったころ、リキニアをはじめとする3人の巫女(みこ:神に仕える女性)が戒めを破って男性と関係を持ち、多くの関係者が罪に問われました。これはまるで日本の「江島騒動(えじまそうどう)」のようです。この不浄な汚れをきれいに洗い流すため、ヴェヌス・ヴェルチコルディアの大社を建てたとき、ギリシャ人の男性二人とゴール人(ケルト人)の男性二人が生埋めにされました。
コルバム尊者がスコットランドのヨナに寺を建てたとき、昼間にせっかく仕上げた工事を毎夜、土地の神様が壊してしまうのを防ぐためとして、自分の弟子の一人(オラン尊者)を生埋めにしました。
ですから、ヨーロッパがキリスト教の国に変わったあとも、人柱は相変わらず行われていたのです。このキリスト教という宗教は「一つの神」だけを大切にするため、昔ながらの土地の神様などはまったく大切にされなくなりました。しかし、「人間をいけにえとして神様に差し出し、土地の神様をなだめる」という考え方は、時代とともに少しずつ変化していきました。やがて、「人柱を立てることによってその土地を確実に自分のものとし、建物をしっかりと頑丈にして絶対に崩れないようにする」という信念へと変わっていったのだと、ベーリング・グールド氏は説いています。
このことから、西洋ではキリスト教が広く行き渡ったあとも人柱はすぐに姿を消したわけではなく、それを行っている「信念や意味合い」が変化したのだということがよく分かります。
思うに、東洋でもこれと同じような「信念の変化」が、多かれ少なかれあったのではないでしょうか。
さらに、キリスト教が統一されたあともヨーロッパで人柱が行われていた例を、二、三挙げてみましょう。
ヘンネベルグという古いお城の壁(レリーヴィング・アーチという構造)には、大変なご褒美をもらった左官職人が、なんと自分の子供を壁の中に塗り込めたという記録があります。
その子供を壁の穴の中に置き、お菓子を与えながら、父親ははしごに上って職人たちに指示を出しました。そして、最後の一枚の煉瓦(れんが)で穴をふさいだとき、子どもが泣き声をあげました。
父親はあまりの自責の念に耐えかねて、はしごから落ちて頭を打ち砕いて死んでしまったといいます。
リエベンスタイン城でも同じようなことがあり、ある母親が自分の子供を人柱として売り渡しました。
壁がだんだんと高く積み上げられていくにつれて、子供が「お母さん、まだ見えるよ」、次に「お母さん、だんだん見えにくくなってきたよ」、そして最後に「お母さん、もう見えないよ」と叫んだのだそうです。
アイフェル地方のあるお城では、若い娘を壁の中に閉じ込め、小さな穴を一つだけ残して、死んでしまうまでそこから食事を与え続けたといいます。
オルデンブルグのブレクス寺(もちろんこれもキリスト教のお寺です)を建てるときになかなかしっかりとした土台ができず、困った村の役人が、川の向こうに住んでいた貧しい母親から子供を買って生埋めにしました。
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