「旅の方のようですが、どちらへ行かれるのですか?」
マタンは、顔のつるりとしたその男を、なんて嫌な感じのやつだろうと思いましたが、正直に、これから帰ろうとしている自分の村の名前を告げました。
「へえ、そうですか」
男は、まるでうれしいニュースを聞いたかのような様子で言いました。
「それは幸運だ。実はわたしも、その村へ帰るところなんですよ。旅は道連れと言いますし、ぜひご一緒させてくれませんか」
「あなたは、どこの人ですか?」
「わたしは、その村の生まれですよ」
「えっ?」
マタンは、もう一度その男を見直しました。しかし、どうしても見覚えのない男です。すると男は、マタンの心にわいた疑いを先回りして知っているかのように、こう言いました。
「生まれは生まれですが、なにしろ三十年も前に村を飛び出したきりですからね。村のことはあまり知りませんよ。わたしの知らない人もたくさん増えたことでしょう」
男はそう言って、ペラペラとしゃべりました。
ふたりが無言でしばらく歩いたあと、男が聞きました。
「三十年も前に飛び出したのですから、ひょっとするとあなたのお母さんが若かったころを知っているかもしれませんね。お母さんのお名前は?」
マタンは興味がわいてきました。
「わたしのお母さんは、ローザといいます」
「ローザ?」
とつぶやいて、男は遠い昔のことを思い出そうとするように考え込みました。しばらくして、
「ああ、そうだ。思い出しました。思い出しましたよ。ローザ、ローザ!」
となつかしむように言うと、マタンの帽子のふちから覗いている亜麻色の髪をちらっと見て、
「あなたのお母さんは、亜麻色のような髪をしていたでしょう」
と言いました。
「いいえ、金髪です」
とマタンが答えると、男はあわてて、
「ああ、そうそう、金髪でした。そう言おうと思っていたのに、うっかり間違ったことを言ってしまいました」
と言い訳をしました。
今度はマタンの小さな目を見て、
「あなたのお母さんは、小さくてかわいい目をしていたと思いますが――」
と言い、今度こそ間違っていないだろうという顔でマタンを見つめました。
「そんなことはありません。ぱっちりした大きな目です」
とマタンが答えると、
「ああ、そうそう。大きな美しい目でした。そう言おうと思っていたのに、つい間違ったことを言ってしまいました。わたしの口は、今日はどうも変になっているようです」
と男はごまかしました。
そして最後に、
「あなたのお母さんは、世界に二人といないほど優しくて、素晴らしいお母さんでしょう」
と言いました。
なるほど、その通りに違いありませんでした。マタンにとって、お母さんほど優しい人は世界中にひとりもいなかったからです。誰でも自分の母親を褒められれば嬉しいものです。マタンはこうして、その男をすっかり信用してしまいました。
そこでふたりは、その日の夕方にたどり着いた道端の宿屋に、一緒に泊まることになりました。一日の旅で疲れたのか、相手の男は布団にもぐり込むとすぐに大きないびきをかき始めました。そこでマタンも、負けてはいられないとばかりに大いびきをかき始めました。
ところが、本当に眠ってしまったのはマタンだけで、連れの男は最初から嘘のいびきをかいていたのでした。
真夜中のころ、宿屋の窓を内側から押し開けて、コウモリのようにひらりと飛び降りた人影を、銀のフライパンのようなお月さまが、高い空の上からじっと見ていたのでした。その人影は、明るい場所を避けるように、生け垣や藪、馬小屋、塀の陰といった暗い場所を選びながら、ひらひらと姿を見え隠れさせていましたが、やがて森の深い闇の中へ、吸い込まれるように消えていってしまいました。
朝になってマタンは、自分の木靴とお金が、あの連れと一緒に消えてしまったことに気がつきました。
世の中には、なんてひどい奴がいるのでしょう。
一生懸命に働いて、汗と油にまみれながら手に入れた大切な金を、悪魔のようにこっそりと盗んでいくなんて。
しかし、なくなってしまったものをいつまでも嘆いていても、それは愚かなことでした。
マタンはまだ、宿賃を払っていなかったのです。
わずかな金額ではありましたが、泥棒にすっかり奪われてしまった今、その宿賃さえ払うことができません。そこでマタンは一計を案じ、宿屋の主人からノミと槌(つち)を借りて木靴を作り、お金の代わりにそれで支払うことにしました。
やせっぽちの主人の木靴、気球のように大きなお腹をした奥さんの木靴、それから小さな可愛い娘さんの木靴。そうして三足を作り上げると、主人は大喜びで「もうこれで十分です」と言いました。
ところが、この村には木靴屋がなかったため、村の百姓たちは大変不自由していました。宿屋に泊まっている腕の良い若い木靴屋の噂を聞きつけると、次から次へと村人たちが木靴の注文をしにやってきたのです。
夕方になっても仕事は片付きませんでした。
そこでマタンは、もう一晩その宿屋に泊めてもらうことになりました。
夜が更けて寝る時間になると、マタンは宿屋の主人に言いました。
「昨夜の部屋は、僕ひとりには広すぎるので、ほかにもっとこじんまりとした部屋があったら移らせてください」
「いいですよ。ちょうどさっき、廊下の突き当たりの小さな部屋が空いたばかりですから、そこへ移りなさい」
主人はそう言って、マタンの手にロウソクを渡しました。
マタンは「おやすみなさい」と告げ、教えられた廊下の突き当たりの部屋へ向かいました。
天井の低い、窓が一つだけついたその小さな部屋の中で、マタンは寝る前にまだ少しだけ仕事をしました。
樫(かし)の木のはめ板にはコオロギが一匹とまっていて、マタンに話しかけるように鳴いていました。
さて、いよいよ休もうと思ってマタンがテーブルの引き出しを開け、ノミと槌をしまおうとしたとき、引き出しの中にふっくらと膨らんだ財布が一つあるのを見つけました。
思いがけない出来事でした。
マタンはぼんやりと立ち尽くしてしまいました。
誰の財布だろう。
昨夜この部屋に泊まった人が、慌てて忘れていったものだろうか。
もしそうなら、マタンがこの財布をもらってしまったらどうなるだろう。
黙って自分の懐に入れてしまえば、それで済むことではないか。
いや、今にも持ち主が引き返して、財布を取りに来るかもしれない。
いっそ今すぐ窓を開けて、逃げてしまえばいいのではないか。
ぼんやりと財布を見つめるマタンの頭の中で、たくさんの声が、いろんなことをめまぐるしいほどに囁き合いました。
はめ板から床へと落ちたコオロギまでが、何かを言っているようでした。
「それは悪いことだ。それは悪いことだ」
と、コオロギは鳴いていました。
すると今度は、マタンの頭の中の別の声がこう囁きました。
「この世じゃ、みんなが悪いことをするんだ。お前も人に金を盗まれたんだから、今度は人の金を盗んでやるがいい」
「そうだ!」
とマタンは思いました。
そこでマタンの左手が、おずおずと財布の上に乗りました。
コオロギはだまりました。
ロウソクの炎は、油のように静かに澄み渡っていました。
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