まるで野々宮を蔑むように、むしろ野々宮になんて無関心だと言わんばかりの足取りでその蔑みを表すように、卓一は先頭に立って歩いていた。
それが昨夜の出来事なのだ。
二人は白山公園へ行き、再び大念寺の門前へ戻って別れた。
三十分間。
全く喋りもしなかったのだ。
「ええ。卓一さん」他巳吉(たみきち)が言った。
「あんた、ダンスできるだろう」
「できないのです」と卓一は嘘をついた。
もういくらかは踊れるようになっていたのだが。
「さて、そこだ」と他巳吉は膝を乗り出した。
「ここは一番、あんたがダンスを覚えるところだ。あんなもの、六十前の若い者なら三十分でお茶の子さいさいだよ。義を見てせざるは勇なきなりだ。そうだろう? ええ、卓一さん。ここはあんた、とにかくあんたが乗り出すところさ。とにかく、もったいない話だからな」
「間違いない踊りの相手を紹介することにしましょう」と、卓一は突然思いついて他巳吉に答えた。
「僕の前の編集長の野々宮さんをご存知ですね。あの人は踊りが好きなのです。頼めば文子さんの相手になってくれるでしょう」
「年寄りをじらすのは罪というものだ。ええ、卓一さん。恥じらいも時と場合によるだろ。ここはあんたのハマり役さ。ええ、聞いただけで嫉けるね。もう二十年若けりゃ、俺が出陣するところさ。畜生め」「結局、蜂を捕り損ねて損をするのは俺様だ」
「僕は踊りが嫌いなのです」
他巳吉はしばらく黙り込んでいた。彼の顔には、どこか気まずそうな笑みが浮かんでいる。
「やっぱりあんた、惚れているんだろう」
他巳吉は突然、声を上げて笑い出した。その笑いはなかなか止まらない。彼なりにいろいろと抑えようとしていたようだが、それでも止まらなかった。
「誰にですか」
「顔に書いてあるよ。頭隠して尻隠さずとは、まさにこのことだ」と他巳吉は腹を抱えて笑う。「ほら、あのお嬢さんさ。弁護士の。わかるだろう? いよいよ、隠していたことがバレたね」
他巳吉は横っ腹を抱え、笑いすぎて苦しそうにしながらも、悦に入っていた。
越後新報の応接室は、西堀に面していた。窓の下には西堀の水が澱み、両岸に並ぶ古い柳の木が、風に揺れて水面に枝をこすり合わせている。堀の向こうには、明治時代に建てられた洋風建築の見本のような、古ぼけた市役所があった。卓一の記憶の中にはその建物が生きているが、彼がここに赴任してきたときには、すでに火事で焼けたあとだった。焼跡は広場になり、そのまま放置されている。空は雨が降り出しそうなほど低く垂れ込めていた。すでに日は暮れ、それぞれの窓には明かりが灯り始めている。
「なんて名前だったかな。あの弁護士は。古川さんだね。そうそう、音の出る黒塗りの四角い箱だ。ピアノっていうのかね。あの音はどうも苦手でね。ピアノを弾くお嬢さんさ。いよいよ先生、穴があったら入りたい気分だろう。悪事千里を走るとはこのことだ」
「与力大寺他巳吉の地獄耳ですかね。どこで仕入れてきたんですか」
「ほら、気になるだろう。先生、消えてなくなりたいだろうね。いい気味だ。うちの孫娘が、なんとか倶楽部とかいうところに入っていてね。そのお嬢さんと、つまり同じ会員さ。あんたもなかなか粋な男だ。私はあなたにほの字のれの字だ。あははは。これは天下の大評判だよ」
またしても「候鳥倶楽部」の話だった。
——澄江。その人は、すでにこの世の人ではない。現実は常に滅びゆくものだ。そして、人の夢の中に生きている者は、この現実の中では滅びるしかない。だからこそ、滅ぼさざるを得ないのだろう。
「あんた、こっそりやっているね」と他巳吉はますます嬉しそうに、卓一の顔を覗き込んだ。
「いやはや、その道の古狸である俺も、大恥をかかされたよ。餌を撒いても食いつかないところに、何か怪しい節々があるとは睨んでいたが、油断大敵だな。今に尻尾を掴まれるぞ。いやはや、どうも、敵ながら天晴れな武芸者だ。あんたはたしかに、忍びの術を心得ているね」
そのとき、木村重吉がドアを細めに開け、おずおずと顔を覗かせた。
「編集長。野々宮さんがお見えですが……」
ああ。またしても喜楽の亡霊が現れた。
木村重吉の背中をすり抜けるようにして、野々宮がいつもの慇懃な苦笑いを貼りつけた青白い顔を見せた。
「昨夜は失礼しました。ご迷惑ではなかったのですか」
「野々宮さん!」卓一は突然、大きな声で叫んだ。まだ挨拶すら交わさないうちに。喜びを顔いっぱいにみなぎらせて。まるで待ちかねていたかのような、生き生きとした声だった。
「あなたはダンスをなさいますね!」
それは、はしゃぎすぎたガサツな態度だった。弾みすぎた毬(まり)のような、調子の外れた不快感が伴っていた。他人に無理やり押し付けるような高圧的なあくどさが、目に見えるようだった。
喜楽の話の、世にも耐え難い退屈さ。そして野々宮に対する、隠しきれない執拗な嫌悪。それを野々宮に見せないためには、突然はしゃぐことだけが唯一の手段だったのかもしれない。それにしても、少しガサツすぎた。ちょうど野々宮のために特別に用意した話題のひとつを持っているという強味が、突然卓一を有頂天にさせたらしい。あいにくその話題は、野々宮にとって迷惑でないとは限らない。そんな内省すら、卓一にはなかった。ただ田舎者のようなあくどさで、勢いに任せて話している自分に気づいているだけだった。
「昔は踊りましたけど……」野々宮は、驚いた様子も見せず、ただいつもの慇懃な物腰で静かに答えた。
「踊っていただきたい婦人がいるのです。せっかく踊りを覚えたというのに、あいにく踊りの相手がいなくてですね。大寺老人が一役買いたいそうですが、若い者に花を持たせる覚悟を決めたのだそうです。老人の推薦によると、水も滴るような麗人だそうで——」
卓一は、酔っ払いのように喋り続けた。文子の名前すら言い忘れて。
——女の名前も、女の身分も、どうでもいいのだ。あなたはもうその人と踊ることに決まっているのだ、と言わんばかりだった。そして、ひどく楽しげだ。まるで勝ち誇っているかのように。
喜楽の執拗な話しぶりに比べて、卓一の高圧的な話しぶりがもっと無礼であることに、彼自身は気づきもしない様子だった。「あなたにお願いすることに決めたのです」
そう言って、酔っぱらった卓一は、あなたの返事など聞くまでもないといった様子で話を締めくくりました。
卓一が長々と話をしている間、野々宮は慇懃(いんぎん)に腰をかがめ、何度も会釈を続けていました。
話が終わると、野々宮はさらに丁寧に「どうぞ」と促しました。
「惚れた男というのは風変わりなものだね」
他巳吉が笑いながら野々宮に言いました。卓一の調子の狂ったガサツな態度に、彼はあきれ果てていたのです。
「仙人だって雲から落ちることもあるというが、裏長屋の八公が帽子だと思って下駄をかぶるようなものだ。いやはや、どうも。卓一さんが別嬪(べっぴん)に惚れたとはね。わはははは」
その夜、左門と他巳吉はもうダンスホールへは行きませんでした。二人は花札を始めました。
一方、卓一は野々宮と文子の二人に、どの場所で、どんなタイミングで別れを告げようか、そのことばかりを考え続けていました。
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