代赭色(たいしゃいろ)の大きな口をガバッと開け、七インチ(約十八センチ)ほどもある、見るも恐ろしい剣のような歯をむき出し、一跳びで三間(約五メートル)ほどずつ跳ねながら、地響きを立てて二人の後ろに追い迫っているのです!
博士と四人の漁夫は、ひと塊になって、しばらくの間呆然とそれを眺めていました。咄嗟のことで、何が始まりかけているのか理解することができませんでした。しかし、まもなくして、この湿原で自分たちの生死を分けるような非常事態が起こりかけているのだと悟りました。ナターシャと教授だけの問題ではありません。まごまごしていると、ここで一人残らず殺されてしまうのです。万死に一生を得るためには、こちらから攻勢に出て、何が何でも相手を倒すしかありませんでした。
教授とナターシャは恐怖に顔を引きつらせ、何か聞き取れないような切れ切れの叫び声を上げながら、息も絶え絶えに走り続けています。しかし、一跳びで三間も跳ねてくる恐竜のスピードには敵いません。恐竜は、教授のすぐ後ろにまで迫っていました。
「ぎゃあーッ!」
赤ん坊の泣き声のような鋭い悲鳴が、しんと静まり返った中生代の湿原の中に響き渡りました。恐竜は、最後の一跳びをすると両手で教授を掴みとり、三十フィート(約九メートル)もある高い胸のところに抱きあげました。
水かきのついた、蘇鉄(ソテツ)の葉のような異様な前肢の中で、みじめなくらいに小さな教授の手と足が、まるで蠅(ハエ)のようにあわただしくもがき回っています。
その足の下で、ナターシャが気を失って倒れていました。
最初に飛び出したのは北原でした。
長い柄のついた泥炭(でいたん)を突く銛(もり)を水平に肩の上へ担ぎあげ、ギリシャの投槍兵のような格好で恐竜のほうへ突き進んで行きました。
猿のような顔を額ぎわまで真っ赤にさせ、丹精を込めて作り上げた銛が使えるのが嬉しくてたまらないといったふうに、顔中を笑い皺だらけにしてニコニコと笑っていました。
「なアに、鯨と遊ぶようなもんだ。
でッけえ体に驚くこたあねえ、阿呆!」
体当たりでもするように恐竜へぶつかって行き、両後肢の間に立ちはだかると、見上げるようにして、右の眼をめがけて、思い切り銛を打ちつけました。
銛は、綱に引かれるように真っ直ぐに飛んでいき、恐竜の眼の下へ深く突き刺さると、ブルンと一度だけ柄を震わせました。
恐竜は、ぐわっとものすごい悲鳴をあげ、胸に抱えていた教授を羊歯(シダ)の上へ叩きつけると、巨大な口を開けて北原をくわえこみ、クルリと身を翻して、鬱蒼(うっそう)とした暗い蘇鉄の森の中へ跳ねこんでいってしまいました。
これが、気丈な北原の最後でした。
九、『アイ』――地底の海
断崖の下には、大海の波が押し寄せ、巻き返し、四六時中止むことなく轟(とどろ)くような音を立てています。
海から上った灰色の霧が、死に装束のようにぼんやりと岩角へまといつき、あらゆる鋭い角を曖昧にして、不気味な島の様子をいっそう神秘的なものにしています。
周囲、十露里(約四十キロ)。
断崖絶壁。
島の中央には、ニコーデ型の火山が唐突に二千メートルも立ち上り、すさまじい火柱を空に噴き上げています。
怒濤(どとう)の咆哮(ほうこう)。
風の号泣。
海鳥の叫び声。
火を噴く山。
それから、岩にへばりついたわずかばかりの羊歯と腕足類。
そのほかに、何ひとつない、地底の海の、荒涼とした孤独の島です。
メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟(ヘブリディーズ諸島)」の寂しさも、この大昔の孤島のそれには遠く及びません。
ツルノニア圏の湿原で、恐竜に襲われた時から今日でもう二カ月になります。
秋も、そろそろ終わりかけています。
あの時七人だった一行は、今は、たった四人になってしまいました。
私(モローゾフ教授)と、それから三人の漁夫――篁(たかむら)、清水、亀井です。
ヤロスラフスキー博士は、今日から二週間前の朝、この島の断崖の下に棲(す)んでいる長者貝(巨大な貝)の採集に出かけたきり、夜になっても帰って来ませんでした。
次の朝、探しに出かけて見ると、右の手に長者貝をしっかりと握ったまま、西側の崖下に墜落して惨死を遂げていました。
執念。
博士にふさわしい最後でした。
ナターシャは、これも同じころ、壊血病で死んでしまいました。
喉をやられ、最後の時には、もう物を言うことができなくなっていました。
血膿(ちうみ)のたまった歯茎を指さしながら、
「あー、あー」
と、叫ぶだけでした。
私たちには、それがどういう意味なのかすぐにわかりました。
ナターシャは、自分の歯を日本の土(長崎でしょうか?)に埋めてくれと頼んでいるのでした。
亡くなる一週間ほど前、彼女の自白によって、彼女がどういう目的で私に従ってきたか、すでに知っていたからです。
彼女は、六人の漁夫の命を庇護(ひご)し、私の殺戮から救うためにやって来たのでした。
日本人だった彼女の母の血に対する敬意と郷愁。
それが、一番の理由でした。
「熔岩メーサ」の岩橋を渡るとき、過失と見せかけて、二人の小銃と弾帯を谷底へ投げ落としたのはそのためです。
彼女は成功しました。
沼のほとりの洞門で、一人の犠牲者を出しただけで、あとの六人(博士も含めて)の命を私の殺戮から完全に救うことができたのです。
なぜなら、あの時、私の拳銃の弾倉には、じつはもう、一発の弾丸も残っていなかったからです。
彼女は、母の血に対する儀礼を済ませると、今度は、私の調査中、空の拳銃を握って、漁夫たちの不意の反撃から、最後まで私を護ってくれました。
ところで、この優秀な婦人青年隊士は、ソビエトではなく、日本の土の下で眠ることを欲したのでした。
母の土の下で。
漁夫の篁が、真剣に頷くと、ナターシャはわずかな微笑を浮かべ、喉をゴロゴロと鳴らしながら死んでしまいました。
私たちがこの地底の孤島に停滞してから、もう二十日になります。
ツルノニア圏の湿原を出てから、金剛砂とクワルツ土の広漠たる原野を彷徨(さまよ)ったのち、ふたたび輝石安山岩の単調な暗い道へ入り、七十六日目の朝、突然、この島の真ん中へ出ました。
怒濤に包囲された、木一本ない不毛の岩島。
どんな方法でこの海を渡ろうというのか! 私たちは、あと二百キロというところで、完全に進行を阻まれてしまいました。
ため息をつきながら、鉛色の海を眺めるばかりでした。
ヤヌッセンは、この氷島の地底の大海を「喜ばしき海」と名付けました。私たちは、ため息交じりにこの海を「アイ!(嗚呼!)」と名づけることにしました。
壊血病がみんなの体を蝕んでいます。食糧も底をつきかけています。この状態で、もう一度スタノヴォイまで引き返すなんて、到底不可能なことでした。
博士も三人の漁夫も、この地底の島で死ぬ覚悟を決めたようでした。
私たちは、食糧不足を補うために魚を釣ることを思いつきました。
鱈(タラ)によく似た魚がいくつも釣れました。博士の意見では、ジュラ紀の古鱈科「エロニクティス」という種類らしいとのこと。
一千万年前の鱈! 私たちはそれを貪るように食べました。
翌日、清水と亀井が軟体動物の奇妙な貝を拾ってきました。
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